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16 トラック諸島空戦

2013年07月11日 | 太平洋戦争

 1943年11月、米軍はギルバート諸島タラワ環礁に上陸して日本軍守備隊を玉砕させた。以降米軍の攻勢は続き、1944年初めにはマーシャル諸島へ侵攻したことで、長年日本軍が根拠地にしていたトラック諸島が危うくなった。ところが連合艦隊は1944年2月10日、艦艇・タンカー・多数の戦闘機を残したまま、パラオへの退避を開始した。ところが2月17日、空母9隻を伴ったトラック攻撃部隊は来襲してきたのである。したがってこの空襲は米軍の奇襲と評されることもあるが、実はそうではない。2月15日、トラックの第四艦隊司令部は米機動部隊の無線を傍受しており、翌日の空襲に備えて警戒配備をとっていたが、予期した空襲はなかったため平常配備に戻したのである。ところが17日、米軍機の大編隊を探知、空母9隻から発進した艦載機による大編隊である。日本側は満足な迎撃ができないまま多数の機体が地上で激破されてしまった。探知しておきながら迎撃ができなかったというのが日本軍の当時の状況なのである。結果、17日には航空機270機を失ったにもかかわらず、翌日も米軍による空襲は続いた。このときの標的は飛行場施設や油タンク施設である。もうすでにめぼしい戦闘機などはなかったからである。これと同時にトラック島の出入り口を戦艦に封鎖させ、脱出艦船の攻撃にあたらせたことで、巡洋艦、駆逐艦、船艇・船舶あわせて40隻が沈み、トラック島は無力となった。この島に取り残された日本兵であるが、食糧2000トンまで焼失したことで6000人にも及ぶ餓死者を出したが、残る3万7千人は終戦を迎えたという。戦後になって、トラック空襲による大被害調査(T事件調査)が行われたようで、空襲の規模から誰が指揮をとっても同じであったとされたが、これはまったくの間違いである。ラバウルを完全攻略するためにトラック諸島からの援軍路を絶つべく空襲があることは十分予想される。また280機もの航空機がなんら抵抗することなく地上で破壊されるという準備不足は誰が考えても納得できるものではなく、首脳陣の失態である。そして多くの守備力のない船舶が全滅したのも、避難をまったく考慮にいれなかったのもすべて作戦失敗が引き起こした惨事であって責任は免れない。先に述べたが、無力化したトラック諸島は食糧もない状態で4万人以上の兵を残して見捨てられ、連合艦隊指令長官・古賀峯一はパラオへ逃れたのであるから、いたしかたなし・・・という調査結果に納得できるはずがない。そしてまもなく古賀峯一司令長官には天罰がくだることとなるのである。

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