トラック諸島空襲により南太平洋側への物資補給は完全に絶たれた。そして1944年3月30日、トラック諸島に替わる日本海軍の重要泊地であるパラオが米空軍機動部隊により空襲を受けて、停泊中の輸送船・支援艦船はほとんど撃沈されたのである。この空襲は古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職する事件にもつながり、その後の海軍のマリアナ沖海戦に大きな影響を与えた。3月8日に発令された新Z作戦ではパラオが前進根拠地となり、連合艦隊司令長官・古賀峯一は旗艦である戦艦・武蔵に搭乗してパラオに進出し、第二艦隊主力の巡洋艦、駆逐艦を率いて作戦に備えていた。アメリカ空母レキシントン、ホーネット、バンカーヒルから発進した航空隊は、艦船、地上施設に対して攻撃を行い、日本側は戦闘機30機以上が迎撃を行ったが、ほぼ全滅したのである。福留繁連合艦隊参謀長は、連合艦隊司令部のパラオからの移動を決め、パラオからフィリピンのミンダナオ島ダバオを経てサイパンへと脱出することを決めた。移動手段は二式大艇2機。二式大艇の飛行距離は4000カイリ、一気に空路での脱出であったが、悪天候のために2機とも遭難し、消息を絶ったという。古賀司令長官機は行方不明で全員殉職。福留参謀機はセブ島沖に不時着して、フィリピンのゲリラに捉えられて暗号書と機密文書を奪われてしまった。一行は後に日本軍に救護されたが、この事件を海軍乙事件という。
それでは海軍甲事件とは何か。それは山本五十六殉死事件をいう。乙事件の約1年前の1943年4月18日、当時の連合艦隊司令長官山本五十六が搭乗した陸攻機がアメリカ軍機に撃墜された事件をいう。1943年2月ガダルカナルが陥落すると、ラバウルは南太平洋の要塞であるだけに敵の反撃を一手に引き受ける場所となる。1943年4月敵攻撃機殲滅のため、山本五十六長官はラバウルを訪問する。4月18日、山本長官を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機でラバウル基地を発進すると零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地に向った。そこでであったのはアメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機である。つまり山本長官の動きはアメリカ側に筒抜けであったのである。アメリカ海軍太平洋艦隊指令長官・ニミッツに全ては見破られていた。ライトニングに挟まれた一式陸攻は6機の零戦に守られることなく簡単に撃墜された。一式陸攻はアメリカ軍から「ワンショットライター」ともいわれ、燃料タンクが大きい上に防弾装備が弱いために一発の被弾で炎上した。防弾装備を備えた双発のP-38ライトニング16機にとっては山本長官隊はもはや敵ではなかったに違いない。零戦に搭乗した6人はこの時撃墜されず、山本の一式陸攻のみがブーゲンブル島上空で打ち落とされたことから、この作戦の全てが理解できる。速度を生かした一撃離脱戦法を武器に雲の上から奇襲した後は最高速度675km/hという速度性能を活かして零戦(最高速度550km/h)を後に撤退したのである。
ところで、乙事件で奪われた機密文書は現在アメリカにて保管されており、後のマリアナ海戦での惨敗は、この文書漏洩が原因であるとされる。しかし、機密文書が盗まれたことは、福留参謀が後に救出されたことから大本営は把握してたはずである。従ってマリアナでの作戦変更はなされたに違いない。作戦変更がなされずにマリアナ海戦惨敗を喫したならば、それは福留参謀長が自らの失態を隠し通したことが考えられる。いかにもありそうな事である。