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19 マリアナ沖海戦での必勝法・アウトレンジ戦法

2013年07月15日 | 太平洋戦争

 マリアナ沖海戦は日米両軍にとって1年ぶりの大規模な海戦である。それは1942年8月から半年間続いたガダルカナル島の戦いで両軍ともに戦力を著しく消耗し回復に努めていたのである。回復前には、日本の正規空母については6隻が翔鶴、瑞鶴の2隻だけとなり、アメリカはエンタープライズのみとなっていた。ところがこの1年間に米軍は新鋭のエセックス級空母を6隻完成させ、軽空母の合計15隻という強大な機動部隊を完成させていた。艦上機の総数は900機にも達した。対する日本は新たに得た正規空母は大鳳のみで、9隻の空母のうち正規空母はわずかに3隻であり、艦上機は米軍の半数にも満たない戦力であった。ところが日本軍の機動部隊の司令長官・小沢治三郎は勝利を確信する秘策・アウトレンジ戦法を準備していた。日本が国防の要としていたサイパンを含むマリアナ諸島は極めて重要な価値を持っていた。もしも米軍がここを拠点に爆撃機B-29を配備すれば、日本本土で直接空襲を仕掛けることができるからである。米軍からすれば、ここを占拠するのは当然の戦略であり、1944年2月から3月にかけてメジュロ・ブラウンの各環礁を陥れ、サイパンへの空襲を開始したのである。1944年6月15日、スプルーアンス大将率いる米軍はサイパン上陸を開始。対する日本軍の機動部隊はこれを迎撃すべくマリアナ近海に進出したことから、6月19日マリアナ沖海戦が勃発したのである。米機動部隊を発見した小沢機動部隊は攻撃機を発進、連合艦隊司令部とともに勝利を確信したというが、結果はまったく逆であり小沢機動部隊に悲劇が襲い掛かることになる。1942年5月以降2年間に渡って作戦失敗ばかりを繰り返してきた日本連合軍である。素人が考えてもアウトレンジ戦法の失敗は目に見えている。アウトレンジ戦法とは日本軍の艦上機が米軍機よりも巡航距離が長い特性を生かして、米軍機の射程距離よりも遠いところに空母を配置すれば、空母は絶対に攻撃を受けることなく、敵空母を破壊できるというものである。この作戦が成立しない理由は多々ある。第一に、ラバウル航空隊が栄光を放った2年前に比べると米軍の戦闘機の性能は格段の向上をしていることを考えていない。零戦の性能に満足して他の戦闘機開発をしていなかった日本とアメリカを同じように考えていたのだろう。第二にラバウルは撤退し、当時の栄光はもはやなかったことを認識していない。つまり熟練パイロットなどほとんどいないのである。第三には対空防御ばかり考え(これも考えてはいないに等しいが)潜水艦対策などは考えなかった。不沈空母と評された新鋭の「大鳳」はたった一発の潜水艦の魚雷によって沈没したのだから、話にならない。そして正規空母・翔鶴も魚雷によって撃沈された。第四には、なんと米軍は帰還可能範囲を超えて攻撃機を小沢機動部隊に向けて発進させたのである。帰還できないとわかっていてということは米軍機による特攻か?その作戦は次回。

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