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18 暗愚・牟田口中将によるインパール作戦

2013年07月13日 | 太平洋戦争

 インパール作成とは、無謀な決行で日本軍3万人が餓死したビルマ戦線であり、最悪の悲劇をもたらしたことは「ビルマの竪琴」で紹介されたので一般によく知られている。インパールはビルマの西側にあるインドの州都である。ここにある英軍基地を攻略してビルマをより安泰に保とうとする作戦がインパール作戦で、1944年3月8日に開始され4ヶ月間続いた。3月8日といえば、トラック諸島からパラオへ陸海連合艦隊が本拠地を移動した頃であり、日本連合艦隊には何の余裕もなかったときである。しかもインパール作戦には補給が続かないという、勝算のない戦いであることはわかっていた。ならば、何故このような作戦は実行されたのだ?しかも今までさんざん兵糧攻めには泣かされ続けた日本連合艦隊である。補給路を絶たれて約2年半、日本側には勝利した戦いはまったくなかったのだから。この作戦を考えたのは牟田口廉也中将という暗愚である。また成立しない作戦を認めた大本営も暗愚といわざるをえない。この作戦には参謀長・小畑信良少将をはじめとする師団長などは大反対した。ところが全員罷免されたのである。結論を言うと、部下を罷免してまで実行した作戦で3万人もの日本兵犠牲者を出しておきながら、この牟田口廉也という男、昭和41年80歳になるまで生き恥をさらしながら生き延びているのである。靖国に眠る英霊には、このような人物は含めてはならないと私は個人的には思う。しかし当時牟田口は作戦に対しては自身満々であったという。話はこうだ。インパール攻めには標高千数百mのジュピー山系、チンドウイン河及び標高3千mのアラカン山系を走破し、数百kmに及ぶ道なき道を行かなければならないが、インパールに入れば補給品はいくらでもある・・・というのだ。進撃部隊は総勢8万5千人、第31師団はインパール北方100kmのコヒマを占領してインパール街道を遮断したと思っていたが、英軍は空輸により物資補給を行っていたから遮断もくそもない。一方31師団は自分の食糧が枯渇したため独断で全部隊に退避命令を出している。第15師団はインパールの北20kmのセングマイ高地に達したが、英軍戦車に制圧された。戦車が登場するとは夢にも思っていなかったらしいが、陸戦で戦車はあたりまえのことである。各地でこのような状況が発生し、英軍火力に圧倒された。進撃路が険しすぎて大砲を戦場に持ってくることができなかった・・・という作戦がインパール作戦なのである。第33師団も同様で、また雨季に入ったことで最前線部隊の攻撃ははばまれ、空爆と戦車攻撃でなすすべなく撤退となったのである。約4ヶ月の戦いに対して持ち合わせた食糧は二週間分であったというから、多くの餓死兵を含む3万人が犠牲になった。

 食糧なし、武器なし、道なし、このような状況で勝つ自身ありと豪語した牟田口中将、どう考えてもその責任は重い。SWOT分析をご存知だろうか。強み・弱み・ピンチ・チャンスを見極めることが最重要課題であるにもかかわらず、なんら分析できていないのだから、これこそ無駄死にである。そして牟田口は何の懲罰を受けることなく翌年1月には陸軍予科士官学校長となった。敗戦後はGHQに逮捕されている。そして昭和41年、80歳で死ぬまでインパール作戦の正当性を主張していたから、どうしようもなく利己的な男なのである。

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