一条天皇という御方
980年-1011年ですから、31歳で崩御されています。まさに藤原氏の繁栄とともに生きた天皇です。紫式部の源氏物語が1005年-1010年くらいに執筆されていますので、まさに式部の世界が一条天皇の世界と考えてもよろしいのではないかと思います。
ここでは一条天皇の皇后についてです。
一条天皇 ━┳ 皇后 定子 - 藤原兼家の長男藤原道隆の娘 ━┳ 脩子内親王(しゅうしないしんのう)
(66代) ┃ (清少納言が仕える) ┗ 敦康親王 (あつやす しんのう)不遇の人生を送る
┣ 中宮 彰子 - 藤原道隆の弟 藤原道長の娘 ━┳ 敦成親王 (あつひら 第68代後一条天皇)
┃ (紫式部・和泉式部が仕える) ┗ 敦良親王 (第69代後朱雀天皇)
┣ 女御 義子 - 藤原兼家の弟 藤原公季の娘
┣ 女御 元子 - 藤原兼道の長男藤原顕光の娘
┣ 女御 尊子 - 藤原道隆の弟 藤原道兼の娘
┣ 御匣殿 - 藤原道隆四女 皇后定子の同母妹
皇后宮:藤原 定子.976~1000年
990年15才で入内し、女御を経て中宮となる。20才のとき父・道隆を亡くし、21才で内裏を退出し二条第に還御し、その後すぐに出家しています。25才で皇后宮となり、年の暮れに難産により崩御されます。 宮廷での女官に清少納言「枕草子」作、がおります。
歌人としても優れ、「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」、清少納言と息がぴったりで、大の仲良し♪♪ 『枕草子』にはその様子が生き生きと描写されています。また、一条天皇の寵愛を受け、亡くなるときまで他を寄せ付けない熱愛ぶりであったのです。
定子とは従姉妹にあたります。999年12才で入内。 一条天皇は20才でした。13才で中宮に立てられ、内裏に遷御。局は藤壷といいます。21才で後の後一条天皇を産み、22歳で後の後朱雀天皇を産みます。25才で皇太后となり、39才で出家し女院(上東門院)となります。1027年(40才のとき)に 父・道長を失い、1074年(87才にて) 崩御されています。
宮廷での女官に紫式部(「源氏物語」作)・赤染衛門(歌人)・伊勢大輔(歌人)・和泉式部(「和泉式部日記」作)がおります。
.二帝の母として強い権限を持ち、弟の頼通・教通とともに、摂関政治の最盛期を生み出しました。道長に対しては反発的であった藤原実資らともよく協調し、『小右記』に「賢后」と記されています。.法成寺内に東北院を建立し、晩年はここに住みました。これにちなみ「東北院」とも号す。.晩年に後三条天皇が即位し、摂関家の勢力に陰りが落ちましたが、「大女院」と称されました。
清少納言と定子のように、この御方は紫式部と大変仲がよく、また定子に対する敬愛の念も深かったことで知られているのです。当時のお后って文武両道ですごいですね。
弘徽殿女御、996年(23才) 一条天皇(17才)に入内〈局:弘徽殿〉します。1004年(31才)のときに、 父・公季が右大臣となっています。1011年(38才)のとき 一条天皇退位・没(32才)し、1024年(51才) 出家します。1053年(80才にて) 亡くなります。
弘徽殿女御といえば・・源氏物語では、源氏の母桐壺の更衣をいじめた御方として登場します。式部が宮中に仕え始めたのが1005年頃ですから、この御方はそのとき30歳・・・・。たしかに会社においても、30歳といえば、仕事にも慣れ主になりなじめる頃ですね。ここらへん・・・源氏物語って、実話に基づくんちゃうのっ・・・・。
承香殿女御、996年の父・顕光が右大臣となったときに、17才にて入内〈局:承香殿〉し、暮れに女御宣下。1012年、参議・・小納言より少し偉い^^源頼定と私通し、父・顕光に勘当されます。しかし、夜陰に紛れて堀河邸を抜け出し、頼定との間に二女をもうけています。 同時期に入内した女御義子・尊子よりは寵せられたという。
暗戸屋女御、前御匣殿女御、995年(12才)に 父・藤原道兼が没。998年(15才)に入内し、1000年(17才) 女御宣下。1015年(32才)で 参議藤原通任と結婚し、1022年(39才)で亡くなっています。
尊子は甚だ冷淡であったといいます。曹司が暗戸屋にあったので「くらべやの女御」と称されました。皇子女はなく、28才のとき一条天皇が崩御。
父は左大臣 藤原道隆、母は高階貴子(式部大輔 高階成忠の女)。定子の妹。
995年(11才)のときに 父・道隆没。1000年(16才)のときに 姉・定子没。この後、遺児の母代として入内し、1002年(18才)の懐妊中に死去しています。