打倒平家を企てた陰謀は1177年に起きた。
・左大将・藤原師長が辞職した後の空席を、院の近臣の藤原成親らが争っていた
・ところ、左大将には平重盛がなり、さらに右大将には平宗盛がなった。
・特に成親は、妹が重盛の妻になっている関係で、平家と親しいだけに腹を立てたことがこの陰謀の一因ともされている。
1177年4月、加賀国目代藤原師経は、加賀白山中宮八院の一つ湧泉寺で、些細なことから寺僧と論争になり、寺を焼き払って帰京した。
・白山勢力は本寺の比叡山に通報、比叡山を通じて目代師経と、国司の師高兄弟の処分を院に求めた。
・師経は備後国へ流罪となったが、これに不満な叡山大衆が、神與を奉じて入洛、朝廷方の武士・平重盛と激戦となる。
・結局、国司の師高は尾張に配流となり、事件は終息へ向かう。
・「白山事件」で藤原師高が尾張に配流になったことで、
その父・西光がこれを嘆き、寺院勢力の中心と思われていた天台座主明雲を院に訴えた。
・すると明雲は天台座主を解かれ、伊豆に配流された。しかし僧兵は伊豆へ向かう明雲を近江国粟津で連れ戻す事に成功。
・ここで院は、院宣に叛いた罪で明雲の召還を指令し、経盛に比叡山攻撃を命ずる。
・ところが経盛は、明雲が親平派でもあり得策ではないとして、拒否。そこで院は清盛に比叡山攻撃を5月23日に命じた。
清盛は悩んだあげく比叡山攻撃を5月28日に決定。
・2日後、源行綱(多田行綱)の密告により鹿ヶ谷の陰謀は発覚し、成親は備前に流罪後処刑、西光は処刑、俊寛らは喜界島に流された。
・これにより、平氏は寺院との提携に成功し、院を完全に孤立させた。
・死罪となったのは陰謀の首謀者・西光のみで、藤原成親などは娘・経子が重盛と結婚し、
嫡男・成経は教盛の娘を娶っていることから、清盛は重盛、教盛から成親への罪の軽減を迫られ、流罪となった。
・しかし成親は備前国庭瀬の郷ににて非業の斬殺を遂げている。
・また、たいそうな美男子であった成親嫡男・成経は局々の女房から惜しまれて、俊寛、平康頼とともに喜界島に流罪となった。
・が流人舟の船出はたいそう遅れたそうである。
・門脇殿の教盛が福原の別邸にいる清盛を訪ね、成経の赦免を懇願してやまなかったのである。
・喜界島での成経・康頼は赦免の沙汰を待ち、島の山々を熊野に見立てて詣でいたこともあり、
1年後には都へ帰っているが、悪僧・俊寛は無残にも島からでることは許されずに没している。
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