開戦時、陸軍はマレー半島等南方諸地域への奇襲上陸作戦に全精力を注いでいた。上陸作戦支援にはもっぱら陸軍機があたり、海軍機はアメリカ航空戦力がひかえているフィリピン航空戦を担当した。アメリカ航空勢力が上陸輸送船団を攻撃すれば被害は甚大である。アメリカの主力はルソン島のイバ、クラークフィールド両飛行場に集結しており、イバへは横山大尉、クラークフィールドへは新郷大尉指揮の零戦隊が96式陸攻、一式陸攻それぞれ54機を護衛して先制攻撃をしかけることになっていた。台湾からフィリピンまでは450海里、航続性能を誇る零戦にとってもあまりにも長大な距離である。かくして龍驤、瑞鳳、春日丸の三空母に零戦を搭載してフィリピン近くまで運ぶ案がだされた。しかしこれらの小空母では零戦70機しか搭載できず、劣速であり、甲板の発進距離不足が問題となり、艦隊司令長官・塚原二四三中将は10月25日、空母使用をとりやめ台湾地上基地からの零戦発進を決めた。これだけ零式戦闘機隊に寄せる期待は大きいのであるが、遠距離を飛んだ後に空中戦を行わなければならないという不利な条件が課せられた。後は気象の好条件が頼みの綱であるが、運悪く発進不可能な状況となった。真珠湾攻撃成功、陸軍上陸部隊のマレー半島上陸、海軍第22航空戦隊美幌航空隊の九六式陸上攻撃機隊がシンガポールの夜間爆撃を終了したという報告を受けて、高雄航空隊、台南航空隊は天候回復を待った。この遅れはアメリカ迎撃体勢を整えさせ先制攻撃をも許すことを意味する。やがて天候が回復すると、両航空隊から零戦84機、九六式、一式陸攻108機が基地を離陸しフィリピンに向かった。まさに堀越二郎設計の戦闘機と本庄設計の陸上攻撃機という三菱重工名古屋製作所による大編隊である。
台湾航空隊の新郷大尉指揮の零戦34機はクラークフィールド飛行場上空に達すると高度を7,000mにして戦闘隊形に入った。すると大編隊にとっては奇跡ともいえる光景が見えた。迎撃のために体勢を整えていたアメリカ軍戦闘機は、大編隊の大幅な遅れにより燃料が尽き、着陸して燃料補給を行っていたのである。零戦に誘導された一式陸攻の第一陣27機は飛行場上空に殺到すると爆弾を放ち、さらに第二陣27機も格納庫、諸建屋に対して大量の爆弾を放った。地上で破壊されたのはP40型戦闘機、B17爆撃機である。零戦は上空に機影がないことを確認すると高度を下げて地上銃撃体勢にはいった。そのとき待ち構えていたように5機のカーチスP40が零戦群に向かって突っ込み、空中戦に入ったが零戦の旋回性能の前に5機ともに撃墜された。一方イバに向かった高雄航空隊の横山保大尉指導の零戦隊50機は飛行場のアメリカ機25機を銃撃、またカーチスP35、P40との空戦でも敵10機を撃墜したことでルソン島渡航作戦は日本海軍航空隊の圧倒的勝利となった。このときの零戦未帰還機は3機であったという。