昭和16年6月22日ドイツはソ連に対して宣戦布告、400万の大兵力をソ連領内に送り込んだ。また7月29日日本は日仏印共同防衛議定書調印によって南部仏印への侵入を開始した。これはもちろん仏印から重慶政府への資源供給を遮断するためであるが、アメリカはインド、シンガポールへの脅威をして対日資産凍結令を布告し、イギリス・オランダも続いた。これは日本にとっては武力行使以上の打撃であり、特に液体燃料については日本国内に1年分の貯蔵しかない。この重苦しい空気は経済圧迫による亡国を回避すべく開戦論へと繋がっていく。そして9月7日の御前会議では開戦準備に着手することが決定したのである。陸軍では南方資源確保作戦が計画され海軍では真珠湾在泊アメリカ艦隊への奇襲攻撃が計画された。いずれの計画も主体は航空戦で、海軍の全兵力は戦闘機519、爆撃機257、攻撃機955などで零式艦上戦闘機322機が絶対的な主力である。南方作戦に従事する塚原二四三中将指導の第11航空艦隊下の基地航空隊は台湾、パラオ、仏印に566機の航空機を所有し、224機の零戦を待機させていた。ここでの零戦精通パイロットに岡村基春中佐、小園安名中佐、柴田武雄中佐、新郷英城大尉、横山保大尉などがいる。
真珠湾攻撃にあたったのは南雲忠一司令長官率いる第一航空艦隊を基幹とする機動部隊は南千島エトロフ島の単冠湾に集合し11月26日発航、作戦主体のハワイ攻撃集団は第一波攻撃隊、第二波攻撃隊、水平爆撃隊、雷撃隊、降下爆撃隊、制空隊で構成され総司令官は淵田美津雄中佐を据え、第一波攻撃隊の指揮を兼ね、第二波攻撃隊の指揮は嶋崎少佐が任ぜられた。敵戦闘機を撃墜する制空隊はすべて零戦で占められ、第一波制空隊は板谷少佐が43機の零戦を指揮、第二波の36機を指揮したのは重慶で初空戦を行った進藤三郎大尉があたった。機動部隊は赤城、加賀、蒼竜、飛流、翔鶴、瑞鶴を中心に、比叡、霧島の戦艦と利根、筑摩の重巡洋艦が護衛にまわり駆逐艦が8隻の給油艦を護衛した。そして伊19、伊21、伊23の三潜水艦が航路哨戒の任務にあたる。たがて山本五十六連合艦隊司令長官から電報が入ると旗艦・赤城にはZ旗があがり、12月8日午前1時利根、筑摩から零式水上偵察機が発進、1時半には空母に待機していた零戦が一機づつ発艦すると攻撃機が追尾した。第一波攻撃隊は183機、第二波攻撃隊は167機である。これらの攻撃の詳細については何度か記載したので省略するが、未帰還機は雷撃機5機、急降下爆撃機15機、零戦は9機で、第二次攻撃隊制空隊の蒼竜艦戦分隊長飯田房太大尉がいる。部下の零戦8機とともにカネオ飛行場銃撃を行ったが、直後に被弾してガソリンが漏れていることに気づき、部下には母艦への帰還を指揮したあと、訓示にもとづいてカネオ飛行場に突っ込んで自爆したのである。
特殊潜航艇による特攻 : 軍国主義、日本国民の恐ろしさを見る
・潜航艇は5隻 ----乗組員は10名
・9名は戦死 ----軍神となる
・愛媛三方で訓練
・生き残った一人は酒巻和夫1918-1999----第一号の捕虜
・処刑を切望するが、捕虜生活をするうちに軍国主義に疑念
・敗戦後国民は帝国主義の象徴である軍神を非難
・1946復員 ----割腹して詫びろという手紙有
・死ぬまで取材は拒否----しゃべると迷惑をかける
・後にトヨタに入社
・1969トヨタブラジルの社長に就任
・1987トヨタ退社