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古事記2 伊邪那岐命・伊邪那美命による国生み

2013年10月21日 | 記紀創世紀

 古事記の編纂を発案した天武天皇は日本書紀の編纂も命じており、古事記完成の8年後の720年に完成させた。その正史の量は古事記3巻に比べると全30巻にも及ぶ膨大な量である。また、正統的な漢文で書かれた日本書紀は中国を中心とした諸外国を意識して書かれており、出雲神話を中心に国内向に編纂された古事記とは大きく異なる。ほぼ同時期に編纂された歴史書なのに、内容にはかなりの隔たりがあることから、古事記の成立は712年よにも数十年さかのぼるのではないかという説もある。ところで、稗田阿礼について古事記には、聡明で描写力と記憶力に優れた28歳の舎人であるとしている。舎人とは天皇貴族に仕えた従者であるが、編纂後に阿礼に官位を与えたという記述はない。阿礼とは巫女を意味することから女性説があり、また当時の権力者・藤原不比等ではないかとする説もある。

 その昔、天地は混じって無限に広がっていたが、やがて天地が分かれて天の最も高いところ高天原に次々と神が立ち現れた。最初に現れたのは天之御中主神、次に天上界の創造神・高御産巣日神、地上界の創造神・神産巣日神が現れ、地上界に生命を吹き込む宇摩志阿斯訶備比古遅神、天上界の永遠を守る天之常立神で、これら5柱神は性別のない単独神である。そして男女一対の神々が5組現れ、最後に現れたのが伊邪那岐命・伊邪那美命である。3柱神は伊邪那岐命・伊邪那美命を呼び国生みを命じるのである。かくしてできたのが、潮がおのずから凝り固まってできたという淤能碁呂島であり、ここを拠点に国づくりを開始したのである。伊邪那岐命・伊邪那美命がまぐわいを行った結果、伊邪那美命は日本の国を形成する大八島(淡路島・四国・隠岐の島・九州・壱岐の島・対馬・佐渡島・本州)や児島・小豆島などの六つの島を生んだ。

 大八島のひとつである淡路島の一宮といえば伊弉諾神宮、伊弉諾神と伊弉冉神が最初に国産みをした地である。ここ淡路一宮町の多賀は、伊弉諾神が三貴子(天照大御神、月読命、建速須佐之男命)にそれぞれ高天原、夜、海原の統治を委任したときに、建速須佐之男命だけは泣きじゃくって黄泉の国へ行きたいといったから、ここ多賀へ追放されたという場所でもある。伊弉諾神宮の鳥居をくぐって拝殿から本殿、禊殿を進むとその姿は圧巻である。伊勢神宮へいったときには伊弉諾神の社に参拝し、追って紹介するが、比べものにはならないほどの立派な雄姿をここ伊弉諾神宮では見ることができる。

日本最古の伊弉諾神宮

 伊弉諾神宮は伊弉諾大神の住居跡が御陵となり神社として祀られるようになったものである。現在の本殿は1882年に古墳頂部を削り、その上に人工地盤を築き改築されたものである。社殿配置をみると本殿を囲むようにあるのが透塀で、南面の中央に中門、北面の中心より少し西に北門、祓殿への橋に接続して西門がある。幣殿は幣帛を奉るための建物で、一般には本殿と拝殿との間にある。ここでは流造りの本殿に切妻の幣殿が取り付き、T字形の一棟となる。古墳上の人工地盤に建つ本殿と幣殿のレベル差が大きいので、幣殿の天井は高くなり、妻入の中門は幣殿の屋根とは縁が切れているが、その妻下に差し込むように取り付いている。 

 唐破風造の唐門は沢山あるが、ほとんどその屋根は反っているのに対して妻入りで起った屋根は珍しく、奈良の大和神社と山陰の方にあるだけであるという。 (本殿・幣殿・中門の屋根が“反り、反り、起り(むくり)”とならんでいる) また、女神の社の場合は内削ぎの千木に偶数(陰数)の鰹木で社殿を造り、男神の場合は外削ぎの千木に奇数(陽数)の鰹木で社殿を造るのであるが、伊弉諾神宮の本殿の場合は外削ぎの千木(屋根の両端で交叉させた部材を垂直に切っている)に偶数(陰数)の鰹木で構成されていた。つまりこの本殿は女神の特徴を持つ鰹木と男神の特徴を持つ千木で構成されており、普通ではありえないその構成理由を調べてみたのであるがわからなかった。

伊弉諾神宮・本殿

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