平安時代の重要な神事といえば 大嘗祭御禊である。 栄花物語では大嘗祭はもっぱら御禊の記述が中心となっている。 御禊というのは天皇が鴨川の川上に行幸して祭りに先立ち禊をする儀式で、栄華物語が特に関心を示しているのは誰が女御代になるかであり、女御代、女房の車の見事さを記している。 女御代は幼少の天皇に女御の代わりとして供奉する女性で、付き添うだけで禊には関与しない。北山抄では母皇后が天皇の輿に同乗するか、女御代を立てるかいずれか一方であればよいと記されている。 11世紀から、女御代には大臣の娘をあてる習慣ができ、栄花物語巻十・日蔭の鬘では 「女御代には大殿の尚侍の殿 つまり威子 出でさせたまふ。 女御代の御車20両ぞあるを、まづ大宮 つまり彰子 より三つ、中宮より三つ、車よりはじめて、いといみじうののしらせたまふ」 というように、藤原道長の娘たちが車を奉り屋形をつくって檜皮をふき、女房の衣装はどれも15枚を重ねているなどと描写している。 御堂関白記でもこのときの御禊の装束や車の様子を異例といっていいくらい詳細に記している。 1016年の後一条天皇のときは道長の娘寛子が女御代となっており、栄花物語巻十二・たまのむらぎく では 「これはなにはのことも改めさせたまへり」 とさらに華やかな様子を詳しく記している。
赤染衛門が平安王朝の宮廷の様子などを描いた 栄花物語 うたがひ と たまのうてな