日本橋は徳川家康が日本一の商業都市を目指して造った町
・で、五街道の基点であり海岸からの荷揚げ場であったから、栄えて当然である。
・3代将軍徳川家光の時代に大久保彦左衛門のもとで活躍したとされる魚屋の一心太助を生んだのもここ魚河岸である。
・江戸っ子の典型として描かれる一心太助は架空の人物ではあるが、大久保彦左衛門の墓の近くには一心太助石塔というのがあるらしく、
大久保彦左衛門の草履取りであったという実在の人物説もある。
・魚河岸の巨大なビジネスが誕生したこの地に、現在では日本橋と江戸橋の間に魚河岸跡地の碑がある。
・日本橋が架かる日本橋川を下ると隅田川に合流し、すぐ南が東京湾であるから鮮度の高い魚が集まるには絶好の場所である。
・徳川家康の関東入国の後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営みます。
・日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになり、日本橋魚河岸が始まったという。
・関東大震災まで、江戸および東京の台所として活況を呈し、龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味で、
記念碑は乙姫を表しているそうです。 また、日本橋をはさんで魚河岸とは反対側の一帯は裏河岸とか北河岸といわれていた。
・「一日に3000両のおちどころ」という川柳が意味するように、芝居町、新吉原とともに1000両の金が動くところでもあった。
・鮮度が命の魚をすばやく売りさばく様がなんとも小気味良く、そういった若衆のことを「いなせな江戸っ子」といったのである。
・いなせというのはぼらの背中のこと。 鯔の背に似た形の髷が若衆の間で当時はやったことに由来するらしい。
・安藤広重が描いた東海道五十三次の「日本橋」には、魚河岸で仕入れた魚を持ち込む「いなせな江戸っ子」の姿が描かれている。
・中央区日本橋人形町には歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んにおこなわれた「堺町・葺屋町芝居町跡」がある
・中村座、市村座といった芝居小屋や茶屋と並んで、役者を描いた錦絵を売る絵草紙屋もあった
・人形町に住んでいた勝川春章1743-1793は錦絵の代表作家
石碑には「日本橋魚市場発祥の地」とあります
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