現在の日本橋1丁目の地は日本橋通りを中心に、西河岸町、呉服町新道、元四日市町、青物町、平松町などの多くの 町があり、江戸城下の中心として活気あふれる庶民の町であった。 日本橋は慶長9年(1604年)に制定された五街道の起点として急速に人々の往来で賑わい、中央通りの両側には呉服の白木屋をはじめ、 両替屋や大問屋が進出し、江戸城下のみならず日本経済の中心となっていきます。 日本橋1丁目北端の日本橋川に架かる日本橋・江戸橋の近辺には、日本橋蔵屋敷や四日市蔵地、江戸橋蔵屋敷があり、諸国から船で江戸に入る物産を納める白壁の蔵々が並んでいたという。 一心太助の話で知られる魚河岸が日本橋のたもとの対岸にあって、江戸っ子気 質の魚屋で大変な賑わっていた。 日本橋西方外濠の西河岸町には、もと幕府の奥医師久志本家の屋敷神であった鹿児島稲荷が鎮座し、江戸城の築城用材木や石材を陸揚げをしたところであったが、寛永10年(1633年)頃には埋め立てられ、1690年には姿を消した。 現在の日本橋3丁目南のあたりである。
西河岸橋由来を説明した看板近辺はサラリーマンの憩いの場、私も一服いたしました