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一上制の沿革@934年

2011年08月11日 | 平安時代

 朱雀天皇が即位して摂政となった左大臣・藤原忠平は後の例と異なり約4年間摂政でありながら左大臣として公事を執行したが934年に一上申文の処分を右大臣仲平と大納言保忠にゆだね、ついで忠平は太政大臣となり、仲平と恒佐には申一上文を大納言・平伊望に申すように定めており、さらに伊望の死後、大納言・藤原実頼が一上宣旨を蒙ったと伝え、これが一上宣旨の初例といわれている。 

 この時代に一上制は確立していたのである。 その後は筆頭左大臣が自動的に一上であったが、976年に関白太政大臣・藤原兼通のもと右大臣藤原頼忠に雑事をおこなうべき宣旨が下されている。 このときの左大臣は源兼明であり、兼明の実権を奪ったものである。 翌年兼明は突然親王に戻され左大臣を辞する。 藤原道長は内覧となった995年から1015年までの20年間、筆頭の右大臣、左大臣の地位にあり、一上の地位にあった。 また院政期の藤原頼長はみずからが一上となったとき道長の一上宣下の例をさがしたがみつからなかった。 1012年道長が重病になったtき右大臣顕光に一上を譲るという噂がたったが、結局道長は政務をとり続けた。 三条天皇が眼病のあめに除目などの政務ができなかったとき、道長を摂政に準じておこなわせることとした。 小右記には例外的に一上のことを手放さないと付け足している。しかし翌年三条天皇が譲位して後一条天皇が即位して道長は摂政となり一上の兼務は不可能となった。 当然右大臣顕光が一上となるべきなのだが、そうはしなかった、と小右記にある。 

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