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摂関政治システム

2011年08月08日 | 平安時代

 平安時代の政務のありかたは諸国から上申された事柄を決裁することと、公卿が集まって議定することの二つに分けられる。 政とはまつりごとであり、政務報告を聞くことである。 聴く主体は本来は天皇であった。 律令制下では朝政とよばれ、天皇が毎日早朝政治を親裁する儀をさした。 律令官人は毎朝朝堂院の朝堂の座につき、諸司は弁官に率いられ、また弁官自体も大臣に対して政を申し裁可を仰ぎ、さらに必要な場合は天皇に奏上して裁可を仰ぐ。 天皇は大極殿に出御し、平城宮の広大な大極殿空間において口頭伝達により朝政を行うのが奈良時代の建前であった。 朝政は律令以前の政のありかたを受け継いだものであるが、やがて形式化していき、平安時代になると特定の日のみになり、また日常天皇が政務を見る場が内裏の紫辰殿にうつっていき、その後に宴会を催す儀式が成立する。 しかしこれも9世紀には衰退し、10世紀には二孟旬だけが恒例となる。 つまり4月1日と10月1日のみに行うものであり、現在の仕組みに似ている。 一般には天皇は出御するが、次第に天皇出御もなくなり(平座という)、宴会だけになってしまうことも多かった。 1018年、平座となったことについて実資は「孟の旬指したる事無きの時、必ず御出有るものなり」 といっていて、天皇が紫辰殿に出御して政をみるべきたとしている。 

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