天号作戦による沖縄特攻の最初は1945年4月6日に実施された菊水一号作戦である。菊水とは当時の軍人が忠臣の模範としていた楠木正成の家門である、この日の特攻は海軍機210機、陸軍機90機、体当たりした米艦船は軽空母・サン・ハーシントなど15隻にのぼり駆逐艦3隻を含む6隻を撃沈させた。しかし日本軍の戦死者も347名にのぼり、特攻最悪の犠牲者を生んだ作戦となった。ここで記載しておかなければならないのは、この時期米軍にとっての戦場は沖縄のみであり、1300隻の空母・戦艦を含む艦船がここに終結していたのである。恐らく沖縄沿岸は米軍艦船だらけに見えたに違いない。そしてこの艦船だらけの中に、日本陸海軍特攻機300機が突っ込んでいった割には沈没6隻という成果に注目したい。4月12日の菊水二号作戦で投入された特攻機は160機、しかし成果はわずかに駆逐艦1隻のみである。4月16日の菊水三号作戦では200機を越える沖縄特攻二番目の規模の特攻が行われ、戦艦・ニューヨークと駆逐艦3隻を損傷させるのみ。4月28日菊水四号作戦では320機の出撃のうち特攻機は121機であるから、通常攻撃機も出撃している。つまり特攻の成果が乏しいから、通常攻撃を取り入れているのである。かくして4月の沖縄特攻では陸海軍約500名のうち452名が特攻攻撃を敢行したのである。
5月になると沖縄地上軍総攻撃に呼応して菊水五号作戦を実施、201機が出撃すると駆逐艦リュース、軽巡洋艦などに損傷を与えた。駆逐艦リュースは二機の特攻機にやられ、艦尾から煙を出しながら左舷に傾き、148名の乗組員とともに沈んだ。5月11日には菊水6号作戦が行われ、特攻機69機を含む244機を出撃させて、正規空母バンカー・ヒルを大破させ、約400名の乗組員が戦死した。これに対する報復措置として米軍は1600機以上の航空機で南九州を空爆している。この大空襲に対する復仇作戦が97式重爆撃機で編成された義烈空挺隊の読谷基地への強行着陸であった。義烈空挺隊が出撃した25日には海軍による菊水7号作戦が行われ、陸軍も70機の特攻機を出撃させた。菊水7号で使われた特攻機は白菊という練習機であり、もはやここまで事態は逼迫していた。菊水8号、9号での特攻は水上偵察機も使用され全く効果はなく、6月22日の菊水10号作戦にて沖縄特攻は打ち切りとなる。いよいよ陸海軍の目は本土決戦に向けられることとなる。