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薩摩藩建直の功労者が自害した理由

2011年05月06日 | 池波正太郎 江戸時代

 佐藤信淵の案・薩摩経緯記を実行に移した調所広郷は茶坊主にすぎなかったが、藩主・島津斉興と協力して莫大な利益をえて家老へと出世した。 ところが後に密貿易の罪を一身に背負って73歳で切腹している。 薩摩藩主・島津斉興は江戸期最も優秀とうたわれた斉彬に家督を譲ろうとはしなかった。 それどころかお家騒動の根を絶つために種子島に養子にいっていた久光を呼び戻して分家の当主にした。 斉彬は正妻の子であるが、久光は側室・お由羅の方の子である。 お由羅は江戸町人の娘であり、江戸屋敷に住む必要はないから薩摩で久光を育てた。 いわゆる御国御前は薩摩育ちで家臣の受けもよく、それがお家騒動の原因にならないように、御国御前の生んだ子は分家などに養子にだして嫡子は後継ぎとして幕府に届けをだすというのが通例の大名のやりかたである。 したがって斉興は斉彬に家督を継がせるどころか対抗馬を育てる真似をしたことになる。 そして家中には久光に家督を継がせるべきという家臣が現われ、これによりお家騒動が始まったのである。 よにいうお由羅騒動である。西郷吉之助や大久保一蔵など藩内の優秀な若手は斉彬が家督を継ぐことを望んでいた。 ところが斉興は斉彬が重豪とかぶったためか嫌っていた。 蘭学癖のある斉彬のやることなすことが、贅沢三昧で薩摩藩の財政をとことんまで悪化させた重豪とかさなった。 しかし斉彬の場合は重豪と違って日本を近代化に導くためのものであって、世界の情勢がわからない斉興やそのとりまきには理解できないどころか、また大浪費かと見るのである。 かくして家督を斉彬には継がせず久光に継がせようとしたのである。 そこで、斉彬支持派は、斉興の密貿易の実態を幕府に密告するという危険な賭けにでたのである。 これにより家老にまで上り詰めた調所広郷は斉興をかばって自害した。 

 島津斉興はこれでもなお隠居せずに藩内の斉彬派を徹底的に弾圧したのであるが、斉彬を高く評価していた老中・阿部正弘は斉興に圧力をかけ続けたことから、結局斉彬は藩主になることができた。 斉彬は将軍の後継者問題に介入する目的で島津家から御台所を送り込む計画をし、一族の娘を重豪の娘にあやかって篤姫と改名させると近衛家の養女にして御台所にした。 まさに斉興にとっては篤姫は不吉であり、斉彬の振る舞いが許せなかったのである。 因みにこの問題は斉彬が藩主となった後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であるといわれている。

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