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沖縄-読谷-6 読谷補助飛行場跡

2015年05月12日 | 太平洋戦争

 ここは読谷の義烈空挺隊玉砕の地碑を探すときの基準位置でした。当時は読谷飛行場ではなく北飛行場と呼ばれて日本陸軍の主要滑走路として整備されていたが、米軍の上陸間もなく占領(4/1午前中)され、ここから爆撃機B24などが日本本土に向けて飛び立っている。これを阻止するために玉砕したのが義烈空挺隊であり、まさにこの飛行場が玉砕の地なのである。隊長は奥山道郎大佐26歳。辞世の句は「吾か頭南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば」 ここは、読谷村のほぼ中央に位置し、施設の東側には幅42m、長さ2,000mの滑走路と1,500mのエプロンがあるが、老朽化している。海兵隊管理の下に陸軍特殊部隊、海兵隊、空軍によるパラシュート降下訓練等が行われていたが、該当区域にフェンスなどの設置はなく、出入りは自由である。1995年のSACA合意により返還が決定し、金武町キャンプハンセンへの同施設移転後の2006年12月に全面返還され、今では飛行場の一部が学校の運動場などに利用されているが、飛行場全景の保存はできなかったものかと思う次第です。以下に「読谷村史編集室」のHPにて紹介されている飛行場に関する記載を示す。

 北飛行場(読谷山飛行場)建設は、太平洋戦争の戦局でアメリカ軍を主とする連合軍が日本軍に反撃し始めた1943年(昭和18)夏、日本陸軍航空本部によって計画され実施に移されました。実際の建設業務は、日本陸軍航空本部と國場組の契約により、國場組が球9173部隊の指揮・監督の下で進められました。当時、設営工事管理責任者の地位にあった國場幸吉の話では、おおよそ次のとおりとなっています。「読谷山飛行場の工事予算は2千3百万円でした。予算規模だけから言っても、沖縄では歴史上かつてない桁外(けたはず)れで、面積も東洋一といわれ、73万坪で、2千メートルの滑走路が東西と南北に2線が敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路がはりめぐらされ、その誘導路は地下掘り込みのコンクリート格納庫に通じていました」(『読谷村誌』より引用、ただし文体は口語文に書き直した)。國場幸吉の話では「掩体壕(えんたいごう)」という言葉はなくて「コンクリート格納庫」となっています。コンクリート造りの格納庫なら、「掩体壕」に他なりません。それに類するような他の構造物はないからです。國場幸吉は「コンクリート格納庫」は地下掘り込みと言っていますが、「掩体壕」は掘り込み施設ではありません。地上に造られた分厚いコンクリート造りで、入口はカマボコの切り口みたいに口を開いていますが、奥のほうに徐々にしぼりこまれた構造になっています。構築工事に参加した人の話によりますと、当時は仮枠などはなく、まず空きドラム缶を積み、土をかぶせて形を整え、その上に紙を敷いてコンクリートを流したということです。もちろん鉄筋なども使用されなかったということです。そのような構造ですから、風化が激しく、今後どのように保存していくかが課題です。1978年頃に作成された資料では7基あると記されていますが、2003年1月末現在3基が現存しています。

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