ひめゆり学徒隊散華の跡は糸満市束里475番地にある・・・として探したが見つからなかったのは珍しいことではない。しかし魂魄の塔というのがあった。ここは沖縄本島最南端の荒崎という岬から東に5kmの摩文仁崎までの間の海岸は沖縄戦最後の地獄となった場所である。首里、那覇から逃げてきた避難民や敗残兵がひしめき、陸上からは火炎戦車隊が迫り、頭上からは戦闘機によるナパーム投下が行われた。絶望のあまり軍から支給された手榴弾で自爆する光景が広がったのである。このとき米軍は投降を呼びかけ、命を助けるビラを持っていけば安全は保障され食事も医薬品も与えられたのであるが、投降すれば後ろから友軍兵によって射殺されるというのが現実であったという。6月18日、伊原の陸軍病院壕で解散命令を受け、壕から脱出したひめゆり隊の学徒達はこの海岸に追い詰められた。引率教員は手榴弾を使って集団自爆を図り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により3名が死亡し3名が重症を負った。ひめゆり学徒散華の地という記念碑には教頭以下16名の教師・生徒の名が刻まれている。
ひめゆり学徒隊の一員であった本村つるさん(1925年生まれ ひめゆり平和祈念資料館館長) は山城陸軍病院壕にて撤退命令が出たときに沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、やや被害が少なかった第一外科地下壕に移ったことで生き残ったという。以下は解散命令が出されたときの状況を本村つるさんが語ったもの。
「出て行ったらですね、19日の。18日に解散命令が出て、19日の夜中にみなさんそれぞれ出て行って、私が出たのは5時ぐらいに出たんですよ。白々と夜が明けていて。それで山城の方に行く人と、それからあちこち。先生がおっしゃるには、国頭の方に向かってという話はあったんですよ。危険はあれして、国頭の方ではまだ静かだから、そこに行くように。だから私たちはみんな「国頭突破、国頭突破」ということで向かったんですけど。山城の丘に登る人、あちこち、海岸に下りる人があったんです。私たちは、戦争終わっていますのでね、東側に行ったんですね。今の大度海岸の方向に向かって行ってるんです。それで私が出たときにはもう飛行機が飛んでいました。だから飛行機がもう弾を落とす、りゅう散弾と言って、途中ではじけるのがあるんですよ。それも飛んでるし。もうとにかく「あの木の陰に行こう」って言って、畑を突っ切って行きましたのでね。桑か何かの木があったんですよ。その木のところにみんな行ったら、そこでまた至近弾が落ちて、土煙を浴びて、何も弾じゃなかったから良かったんですけど。しばらくしたら今度は、迫撃砲がですね、ポンポンポンポン、とこちらに向かって落ちてくるのが見えるんです。「ああ、もうここは危ない」とすぐに「走ろう」って言って走って荒崎海岸の近くにモクマオウ林がいっぱいあって、そこにみんな走って行ったんですよ。そこは木が生えていて上からは見えないけど、下は何も壕があるわけじゃないんですね。だけどそこに兵隊がいたし、それから民間の人がですね、何名かそこにいて。私たちはそこに走って行ったら、たまたま土くれがここに当たったもんですから、とても痛かったんですね。それでその民間の人がちょっと砂を掘って、ちょっと溝みたいなの作って、そこに入ってる人がいたから、「入れてください」と私そこに飛び込んだんですよ。他の人たちはみんな、それぞれに散らばってなにしたんですね。そのとき津波古さんも一緒ですけど。津波古さんたちは何かソテツの下にいたとか。アダンの下にいたとか言ったんですけど。もうそうなったらどこに誰がいるか分からないんですけどね。そこで大舛さんがやられたんですよ。その丘の上で。そのときにですね、非常に敵のあれが近づいていたと思うのは、戦車の音が聞こえたんですよ、ゴロゴロゴロして。そしたら民間の人がですね、棒に白いハンカチをあれして走って行く人がいたんで、「あ、あの人は捕虜になりたいんで行くんだね」とそれを見ていたんですよ。その見てるときに弾が落ちたんですよ。私はそれを見ていました。そして大舛さんがこの、ここの背中の方をやられてですね、もう足が伸びきってもう全然動かせないんですね。もう大変でしたね。だから大舛さんを置いていっちゃったんですよ。これはとっても私も人に話するの苦しいんですけどね、置いて行っちゃった。「後で迎えに来るからね」と言って、みんなで下りたんですよ。そこにもうその兵隊は来るのは分かっていましたのでね。今ここあれだから、後で迎えに来るから「しばらく」と言って出てったんですけどね。結局は下りて行って、そして民間の人がいっぱいどこかに行くんですよ。そのうちに一緒に行こうとしたら、「捕虜になるからだめだ」と言って、また慶座(ギーザ)バンタの近くのね、海岸をずっと歩いて。そこの近くの丘の上に登っていたんですけど。ここがもう兵隊が急造爆雷を持ってですね、斬り込みに行くと言ってあれして、「ここは危ない」って言ってまた海岸に下りて。海岸からずっと歩いて、あそこには水が流れるところがあったんですよ、真水が。そこで水をくんでちょっと行ったところにしばらくいたんです。そこにまた弾が落ちたんだから、上にあがって、結局私が捕まったのは、慶座バンタだったと思うんですけども。その海岸をですね、歩くのに弾が来るもんですから、「海に入ろう」と海に入ったんですよ、みんな。それぞれ手を引いて。西平先生は下級生の人、潮平さん(昭和高女の生徒)の手を引いたみたいですね。私と石塚さん、それからそういうふうにして、みんな2人ずつ手を組んだ。それで私は泳げないもんですからね、もう海に入ったら私はもう死ぬかもしらんと。波がですね、すごいんですよあそこの波。それで来たらばっと流されそうで、もう怖かったんですけど。珊瑚礁ですから、うんと低くなってね、また上がったり、中は大変なんですね。それでうんと浸かったり、また上がったりしていたら、また今度はまた海に弾が落ちてきたんですよ。兵隊がいっぱいいました、その日本兵が、下りてきた兵隊がね。それでそこに弾がどんどん来るもんですから、もうそこからまた断念して、海から上がる。断念して海岸、岩のこうなったところずっと歩いて行って、やっと、やっと上にあがったんですけど。とにかく先生が「こうした方がいい、ああした方がいい」と言って付いて行ってるから生きているもんであって。どうしていいか分からない。私はだから、先生と一緒だった人は大体みんないいんですよ。仲宗根先生と一緒だった人も、与那嶺先生と一緒だった人も、みなさんそのまま助かっていますので。結局は、生徒だけで行った人はどうしたらいいか分からなくて、犠牲がたくさん出たんじゃないかと私は思うんですけうんですけどね。もう解散命令になってから、100名近くは亡くなっていますから。それまではそんなに、まあ20何名かぐらいだったと思うんですよ。だからあの解散命令の後のあれがね。何か先生方は、何名かずつを連れて行こうという案も出たようですね。だけど先生の中には、もしこの連れて行って、自分が先に死んだらどうするかという話もあったようですね。それはもう先生方の話で、よく分からないんですけど。そういう話もあったと、ちょっと聞いてるんですけどね。」