第一部 第一章 寛弘五年(一〇〇八)秋の記
【一二 無事出産】
中宮様の御頭頂のお髪を形ばかりお削ぎ申して、御忌戒をお受けさせ申し上げなさる間、途方に暮れるほどの気分で、これはどうなることかと、驚きあきれるほど悲しいと思っているうちに、無事にご安産なさって、後産のことがまだの間、あれほど広い母屋から、南面の廂の間、外の簀子の高欄の際まで立て混んでいた僧侶も俗人も、いま一段と大きな声を上げて礼拝した。
【祈祷する僧侶に無事を報告する紫式部 風俗博物館より拝借】
東面にいる女房たちは、殿上人にまじって控えている格好で、小中将の君 【中宮付きの女房】 が、左の頭中将源頼定 【為平親王の息子で、彰子の妹・綏子(すいし1004に没)を懐妊させている。また右大臣顕光の娘・元子とも通じた】 とぱったり顔を合わせて、茫然とした様子などを、後になってそれぞれが話し出して笑った。化粧などのが行き届いて、優美な人で、明け方に化粧をしていたのだが、泣き腫らして、涙でところどころ化粧くずれして、驚きあきれるくらい、小少将の君とも見えなかった。
宰相の君 【 藤原道綱の娘豊子のことで、彰子のいとこにあたり、彰子の女房として仕えていたのです 】 が、涙で顏変わりなさった様子などは、とても珍しいことでございました。それ以上に、わたしの顔などはどう見えたことであろうか。けれども、その際に見た女房の様子が、お互いに覚えていないというのも、幸いなことであった。
いよいよ御出産あそばすというときに、御もののけが妬み声や大きな声を出すことなどの何とも気味の悪いことよ。憑坐らの源の蔵人 【中宮付きの女蔵人。憑坐(よりまし:神霊がよりつく人間)を差し出した女房】 には心誉阿闍梨【藤原重輔の三男】を、兵衛の蔵人【中宮付きの女蔵人】には妙尊という僧侶を、右近の蔵人には法住寺の律師【権律師尋光。藤原為光の子、斉信の弟】を、宮の内侍の局【中宮付きの女房】には千算阿闍梨を担当させていたところ、阿闍梨たちがもののけに引き倒されて、ひどく気の毒だったので、念覚阿闍梨【藤原済時の子】を呼び寄せて加えて大声で祈祷した。
阿闍梨たちの効験が薄いのではない、御もののけがひどく手強いのであった。宰相の君担当の招祷人に叡効阿闍梨を付き添わしたところ、一晩中、叡効阿闍梨は大声を上げ続けて、声も涸れてしまった。御もののけを移らそうと呼び出した憑坐たちも、すべては移らないので大騒ぎしたことであった。
【体力のない妊婦が出産するときは加持祈祷がすごかった様子がわかります。】