道長の陰謀に翻弄された彰子
996年1月に起こった「不敬事件」によって藤原道長のライバル「藤原伊周」が失脚し、中宮「藤原定子」も出家となったことで、朝廷の地位を手に入れた「藤原道長」はココから本領を発揮していきます。
999年11月7日、何としてでも娘を皇后にしたい「藤原道長」は弱冠12歳の娘「藤原彰子(しょうし)」を「一条天皇」のもとへ無理矢理に嫁がせて妃としてしまいます。
ちなみにこの日は「藤原定子」が一条天皇の第一皇子「敦康親王(あつやすしんのう)」を産んだ日でもあります。
そして翌年の1000年2月には「藤原彰子」を「中宮」に、「藤原定子」を「皇后」とし、前代未聞の「一帝二后」、つまり1人の天皇に皇后が2人という異例の事態を引き起こし、先に中宮となっていた「藤原定子」は名前だけの皇后に追いやられてしまいます。今では、皇后の別の呼び名が天皇のお后となっていますが、当時は初耳の地位でした。
そして1000年12月、「藤原定子」は皇女を出産するときの難産が原因で24歳の若さでこの世を去ってしまい、この事態に心を痛めた中宮「藤原彰子」は自分に子供が居ない事もあり、「藤原定子」が産んだ第一皇子「敦康親王」を引き取って我が子のように可愛がって育てることにし、「藤原道長」が後見人となります。
しかし「藤原彰子」が1008年9月に第2皇子「敦成親王(あつひらしんのう)」を、1009年に第3皇子「敦良親王(あつながしんのう)」の2人の皇子を出産すると「藤原道長」は「敦康親王」の後見をあっさりと解いてしまいます。
その後の1010年、「藤原道長」は一条天皇の皇太子「居貞親王(おきさだしんのう)」に次女の「藤原妍子(ふじわらのけんし)」を嫁がせます。 ちなみにこの時「居貞親王」35歳、「藤原妍子」17歳であったそうです。陰謀も架橋にはいります。^^
そして1011年6月13日、病に寝込みがちになった一条天皇は皇太子「居貞親王」に譲位することにし、当時36歳の「三条天皇」が誕生し、皇太子には一条天皇の第2皇子「敦成親王」が選ばれます。当時「三条天皇」には「敦明親王」を始めとする4人の皇子が居ましたが、 「藤原道長」の権力には勝てず、4人とも皇太子には選ばれていません。またこの皇太子選出の時、「藤原彰子」は我が子である第2皇子「敦成親王」ではなく、 我が子のように可愛がっていた第1皇子「敦康親王」・・・定子の子・・を皇太子に推薦しますが、 どうしても自分の孫を天皇にしたい「藤原道長」の権力には勝てず、結局「敦成親王」に決まってしまいます。 そしてその後スグの1011年6月22日、「一条天皇」は32年間の生涯に幕を閉じてしまいます。
「三条天皇」の母親は「藤原道長」の姉「藤原超子(ちょうし)」なので「三条天皇」と「藤原道長」とはいわゆる叔父と甥の関係にありましたが、「藤原超子」が早くに亡くなっていることもあって、この2人の間には血縁意識があまり無かったと言われています。
また、自分の孫を天皇にさせたいと願っている「藤原道長」にとって甥っ子という中途半端な血縁者である「三条天皇」は単なる邪魔者でしかなく、これを察したのか「三条天皇」の方も「藤原道長」の事をあまり快く思ってはいなかったようです。
1014年1月、不吉な出来事の前ぶれとして恐れられていた彗星が京都に現れ、2月には「内裏」が火事で燃えてしまい、また時を同じくして「三条天皇」の左目が弱って耳も聞こえなくなってしまうという事まで起こります。 そして翌年の1015年11月には再建されて間もない内裏がまたもや焼失してしまうという事件まで起こります。彗星:太陽の周りを楕円上に周回する。周期は約75年、最近では1986年に地球に近寄る。長く伸びた尾には毒素が含まれ、地球に大接近すると人類は死滅するとの噂が流れたことがある。最も古い記録ではBC240年に史記に表れている。因みに形は八芒星。
これら一連の事件・災害は全て「三条天皇」が天皇としてふさわしくない事の現れだとして「三条天皇」の退位は決定的となり、また「藤原道長」も「三条天皇」に対して天皇の位を降りるように進言したこともあり、「三条天皇」は退位を決意します。これによって皇太子だった「敦成親王」は「後一条天皇」として即位、「後一条天皇」の皇太子は「三条天皇」の第1皇子「敦明親王」と言う事になりました。
なんか、できすぎの話です^^