藤原道長全盛期
藤原道長
┣━━━┳ 藤原彰子(長女)一条天皇中宮 988-1074年 紫式部と仲良し 上東門院 和泉式部、赤染衛門も仕える
源倫子 ┣ 藤原頼道(長男) 992-1074年 1053年平等院鳳凰堂建立 宇治殿
(鷹司殿) ┣ 藤原妍子(次女)三条天皇中宮 994-1027年 娘・禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となり、尊仁親王(後三条天皇)産む
┣ 藤原威子(四女)後一条天皇中宮 999-1036年 章子内親王・馨子内親王を出産
┣ 藤原嬉子(六女)後朱雀天皇東宮妃 1007-1025年 親仁親王(後冷泉天皇)を出産
┣ 藤原教道(五男) 小式部内侍との間に静円をもうける
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┃ ┣ 藤原頼宗(次男) 993-1065年 五代後に源頼朝と姻戚関係を結ぶ一条能保を輩出
源明子 ┣ 藤原顕信(三男) 994-1027年
(高松殿) ┣ 藤原能信(四男) 995-1065年 養女・茂子は後三条天皇の皇子・貞仁親王(白河天皇)を産む
┣ 藤原寛子(三女)敦明親王女御 999-1025年
┣ 藤原尊子(五女)源師房側室 (頼通の養子) 1007-1084年
┗ 藤原長家(六男) 1005-1064年 倫子の養子となる歌人
「後一条天皇」の「摂政」となった「藤原道長」は、 その翌年の1017年3月、息子の「藤原頼通」に摂政の位を譲り、自分は貴族の最高位「太政大臣」の位に任命されます。 そして同年5月、以前から病気がちだった「三条上皇」が亡くなり、これによって強力な後ろ盾が居なくなってしまった皇太子「敦明親王」は自分の身が危うくなった事を察知してか、皇太子の位を自ら辞退してしまいます。 そして空席となった後一条天皇の皇太子の席には、太政大臣「藤原道長」の孫で「後一条天皇」の弟でもある「敦良親王」が選ばれます。
この皇太子選出の時にも「藤原彰子」は我が子である第3皇子「敦良親王」ではなく、 「藤原定子」が産んだ第1皇子「敦康親王」を皇太子に推薦しますが、父である太政大臣 「藤原道長」の権力には勝てず、結局「敦良親王」に決まってしまいます。
その後、1018年10月、「藤原道長」は「後一条天皇」のもとに3女「藤原威子(いし)」を嫁がせて中宮にすることに成功します。 これによって「藤原道長」は「一条天皇」「三条天皇」「後一条天皇」の歴代3人の天皇にそれぞれ「彰子」「妍子」「威子」の3姉妹を嫁がせて、その全員を「中宮」にするという大偉業を成し遂げます。 また更に皇太子「敦良親王」には4女「嬉子(きし)」を嫁がせる用意が調っています。 「藤原道長」は今まさに「藤原氏の理想」を現実のものとしたのです。 そしてこの時に「藤原道長」は次のような短歌を一首詠んでいます。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」
(この世の全てがまるで自分のもののように思えます。私の心は欠けたところのない満月のように満足しています。)