都を去ることになった菅原道真
901年1月25日、政敵であった左大臣藤原時平(871-907年)の策略で、醍醐天皇から右大臣菅原道真に対し、太宰府に左遷する旨の詔勅が発せられた。 時平は先に藤原氏に繁栄をもたらした藤原基経の子で、荘園の整理や班田収受制の施行など律令制の維持に努めたが、39歳で死去します。 厳格な政策が怨まれ、その早死には道真の祟りとされました。
時に道真は56歳、今から約1100年前のことです。 過酷な真冬の筑紫への旅を強いられることになります。 道真は2月1日に自宅を出立し、現在の京都・長岡京あたりから舟で淀川を下ったとされます。 海船の乗換え拠点である渡辺津までは約30km・・・、そのまま一直線で淀川を下れば1日の行程であるが、途中各所で下船をし、その足跡を残しています。 また、大阪に着いてからも、河内・道明寺の伯母覚寿尼を訪ねる道すがら、あちこち数十箇所にも及んで足跡を留めています。真実の程はわかりませんが、大阪の地で何日も留まっていることから、太宰府行きの左遷に抵抗する、道真の姿が垣間見えます。
太宰府に赴任してからの実生活は、悲惨だったようで、僅か2年後の903年、失意のうちに58歳で他界しています。
菅原道真が旅の途中で立ち寄ったといわれる名所
長岡天満宮(長岡市) : 長岡天満宮の地は、菅原道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだゆかりの地で、901年道真が太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだと伝わり、別名「見返り天神」とも呼ばれている。
蹉だ神社(枚方市) : 菅原道真が太宰府に左遷の途中、娘の苅谷姫は父を見送るためにこの地まで来たが、道真は既に出発した後で逢う事が出来ず、足ずり(さだ)して嘆き悲しんだので、この旧跡を「蹉だ山」と名づけられた。
佐太天神宮(守口市) : 沙汰当地は菅原道真の領地であったところで、赴任途中に当地でしばらく滞在したと伝えられている。 道真は、宇多法皇の計らいで、自分の無実が証明されるかもしれないと、一縷の望みを持ち、ここで都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰もなく、筑紫へ下向することとなった。
服部天神宮(豊中市) : 秦氏が住居していたところで、この秦氏一族が崇拝していたのが「少彦名命」とのことで、当社の創建はこの時代まで遡ることになる。 菅原道真が旅の途中、この辺りで脚気に悩まされ、足が浮腫んで歩けなくなったとき、村人の勧めで、「少彦名命」を祀る服部の路傍の小祠に詣で、平癒を祈願したところ、持病の脚気が治り、無事に大宰府に着いたと伝えられる。 当地は大坂から池田、能勢、亀岡に通じる能勢街道の中間地点にあったことから、江戸時代の中期から末期にかけては、非常な賑わいを見せ、旅籠、料亭、茶店が軒を並べていたといわれる。
網敷天神社(大阪市北区) : 822年嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融(みなもとのとおる)が824年に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。 現名は、901年菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになった。
太融寺(大阪市北区) : 821年嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建。ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融(みなもとのとおる)がこの地に八町四面を画して七堂伽藍を建立したとのことである。 境内には淀君の墓がある。
四天王寺(大阪市天王寺区) : 約1400年前、聖徳太子が日本に渡来した仏教の採否をめぐって、物部守屋と争そった際、陣中で四天王に戦勝祈願を行い、勝利した。太子は誓いの通り、587年四天王
の像を安置し、日本最初の官寺を建立した。 現在も聖徳太子創建当時以来の「四天王寺様式」と呼ばれる伽藍配置が保たれている。 広大な境内には五十有余の堂塔伽藍があり、国宝、重要文化財を多数収蔵していることで有名である。
大阪天満宮(大阪市北区) : 『天満の天神さん』として有名。夏の天神祭りは当宮創祀の翌々年始まったとされ、歴史と伝統を有し、『日本3大祭り』の一つである。 901年菅原道真は、途中、河内の叔母に別れを告げられた後、川舟と海船の乗換え港であった難波の渡辺に寄り、筑紫へと旅立ったと伝わる。 この由緒により、949年村上天皇の勅願により菅原道真を主神として奉祀、後に天神の森と称せられるようになった。以来千有余年、天満宮はこの地で、寸尺も位置を変更することなく現在に至っているとのことである。
福島天満宮(大阪市福島区) : 道真赴任の途中、河内道明寺の叔母覚寿尼を訪ねた後、いよいよ瀬戸内海を船で下ることになり、当地で風待ちのために滞在した。その時、土地の人達が失意の道真一行を丁重に迎え、親切にもてなした。道真はこれに感謝して、御礼に布地に自分の姿を描いた絵を残し、傍らの梅の小枝を一枝折り、『行く水の中の小島の梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらむ』と詠み、梅の枝に添え、松の小枝と共に地面に突き刺した。不思議なことにこれが1本となって根を下ろし大木となり、元禄年間(1688~1704年)の頃まであったという。 903年(延喜3年)道真の訃報を風の便りに聞いた里人が、その徳を慕い、この梅松二枝が根を下ろした所に、小祠を設け画像を祀ったのに由来する。
北野天満宮(京都市上京区) : 全国で菅原道真を祭神とする「天満宮(天神社)」は全国で12000社にものぼるといわれるが、北野天満宮はその宗祀である。 978年一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ、「北野天満宮」の神号を得た。1004年の一条天皇の行幸を初めとし、以降、天皇・上皇の行幸も度々あり奉幣祈願の絶ゆることはなかった。