―子どもの出産と終戦後の生活―
終戦直後の生活は、食料不足、物資不足の中、病弱者の家庭はそれは大変でした。製造品と物々交換し、節約し、大切にし、保存してきたお米も底を突きました。しかし病人には白米のお粥を上げねばならず、純米粥、お魚で毎食する父を家族の私たちは横目で羨みました。私たちといえば1カ月に10日分か、ひどい時には3日分の配給米でしたから、来る日も来る日も代用食でした。たまに米と大根その葉などに水を沢山入れて増やしてするお粥は米が混ざって見えると云ったらよいものでした。
昭和21年、長男、23年次男、26年3男を出産いたしました。現在、皆信仰をもって欲しいと切願して居ます。健康も仕事も結婚した家族も何とか一生懸命やっております。
次男が生まれたころから事業がおもわしくなくなりM家も増えたので、相談の結果私たちは西方村に嫁いで居た私の実の妹の世話で土地を借り、西方村の物置同然の小さな家に移り住みました。
夫は若い頃から真面目な人でした。健康で害してもよほど痛まないかぎり自分から仕事を休むことはありません。現在礼拝出席はたまに休むだけです。
(故M.N姉証「無限の感謝」より)
終戦直後の生活は、食料不足、物資不足の中、病弱者の家庭はそれは大変でした。製造品と物々交換し、節約し、大切にし、保存してきたお米も底を突きました。しかし病人には白米のお粥を上げねばならず、純米粥、お魚で毎食する父を家族の私たちは横目で羨みました。私たちといえば1カ月に10日分か、ひどい時には3日分の配給米でしたから、来る日も来る日も代用食でした。たまに米と大根その葉などに水を沢山入れて増やしてするお粥は米が混ざって見えると云ったらよいものでした。
昭和21年、長男、23年次男、26年3男を出産いたしました。現在、皆信仰をもって欲しいと切願して居ます。健康も仕事も結婚した家族も何とか一生懸命やっております。
次男が生まれたころから事業がおもわしくなくなりM家も増えたので、相談の結果私たちは西方村に嫁いで居た私の実の妹の世話で土地を借り、西方村の物置同然の小さな家に移り住みました。
夫は若い頃から真面目な人でした。健康で害してもよほど痛まないかぎり自分から仕事を休むことはありません。現在礼拝出席はたまに休むだけです。
(故M.N姉証「無限の感謝」より)