『宇都宮教会のいろいろ』   ☆ブックマーク欄「宇都宮教会ホームページ」も併せてご覧ください。

インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

牧師・エッセイ

2015年05月31日 18時44分11秒 | メッセージ
『富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる。 善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。』(箴言22章7~9節)

祈 り
☆6月11日(木)午前10時三浦綾子読書伝道講座が当教会でもたれます。講師はインマヌエル久留米教会員で同会代表の森下辰衛氏です。同会を励ますために援助の献金に加わってくだされば感謝です。
☆教会内外の片付けや整理、剪定、草刈り、園芸などが続いております。多忙な牧師方のために。

♪今週半ばの集会♪
6月 2日(火)聖書に学ぶ会    10:30~
6月 4日(水)ミニチャーチ集会  11:00~
6月13日(土)公園CS      15:00~  ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
6月4日の集会の場所については教会にお問い合わせください。
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(Ⅰコリント12:27) 体の部分がどれも大切なようにどの人も大切な存在であることを学びました。

ガーデンスポット
 山法師

次聖日の礼拝説教 イザヤ書55章6~10節「主にお会いできる間に」

十字架の奥義

2015年05月29日 10時56分42秒 | メッセージ
 【キリストの足跡】
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」Ⅱペテロ2:21
 キリストが十字架を負われたのは、私たちの贖いのためでした。しかし、そこにはまた、贖われた者の歩むべき模範がありました。それはクリスチャンもまたキリストに倣って、苦しみを味わうためなのです。
 それで、ここに3つの事が記されています。
 第一にクリスチャンは、キリストの足跡を踏むように召されています。
苦しむということは誰しも好まないことです。しかし、クリスチャンであるために苦しみを味わうことがあります。 ゆるせない人をゆるす、忍びえないことを忍ぶ、また、キリストを証するために受ける迫害、困難もあります。そして、キリストのために、自分自身を時には家族さえ犠牲にすることがあります。
 しかし、これは、みなキリストに倣う道なのです。私たちはキリストの足跡にならうように召されているのです。
 使徒パウロも言っています。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」(ピリピ1:29)と。
 第二にキリストの模範があります。
 キリストは、様々な苦難の道を歩かれ、試練を受けられました。その一つ一つは、みな私たちの模範でした。主イエス・キリストが受けられた迫害も嘲笑も、貧しさも苦しみも、周囲の魂に対する悲しみも涙も、それは私たちをその御足の跡に倣わせようとの手本であり模範でした。
 私たちがキリストを信じるゆえに通らされる試練や困難のただ中にも、その一歩前にキリストの御足の跡のあることを知らねばなりません。私たちは、ただ、キリストの御足の跡を踏んで進めば良いのです。
 第三に、神の喜ばれることです。
 「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。」(Ⅰペテロ2:20)
 神は、御子イエス・キリストを全うされるために、様々な試練、困難の道を歩かされました。そのように、キリストに従う神の子どもたちを完成されるために、また同じような道を歩ませられるのです。それによって、洗練され、聖別され、練達し、成長していくのです。これは神のご計画の中にあるのです。
 私たちは、キリストの御足の跡に倣うことをためらってはならないのです。

本田弘慈「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

十字架の奥義

2015年05月22日 12時56分02秒 | メッセージ
【キリストに倣って】
「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ人への手紙5章2節)
 使徒パウロはエペソ人への手紙5章の中で3つの歩みについて語っています。その第一は怒りの子(5:8)として。しかし、それに先立って勧められていることは、「愛のうちに歩みなさい」(5:1)
 私たちは光の子としてきよく、賢い人として時代を識別して歩むことが大切ですが、また、クリスチャンとして、愛のうちに歩むことの大切さも教えているのです。
「歩む」とは生活することを意味しています。クリスチャンは、「愛の中に生活すべきなのです。
 それは、愛される神の子として、神に倣った生活をすることです。それは、また私たちを愛してご自身を十字架につけられた、イエス・キリストのお姿に似る道なのです。
 キリストが、ご自身を十字架につけられたとき、それは、キリストを信じ、従うものへの模範となってくださったのです。それは、
 第一に、神へのささげものでした。
 キリストにとって、神こそ、愛の対象であり、愛の目標でした。主イエスは全身、全性、全霊を神にささげて、父なる神を愛しておられました。私たちも、キリストに倣って、全身を、全性を、全霊を神にささげて、神を愛すべきです。それは神を第一とした生活をいっているのです。
 第二に、神の供え物として。
 主イエス・キリストは、私たちの贖罪のために、神のみ前に全き犠牲の供え物となってくださいました。それは自己を犠牲にしたささげものでした。それは全くご自身を無にした供え物であり、愛の献身でした。
 私たちも、キリストに倣って、全部を神にささげる、すなわち、愛情も意志も、所有物も時間もすべてを神に明け渡した生活をすべきなのです。供え物とは犠牲にするものをいっているのです。
 第三に香ばしいかおりです。
 香ばしい香りは、人の心も喜ばせます。まして、神へのささげ物は神の御心を喜ばせます。私たちの供え物は、自分の意図に従うのではなく、神ご自身の御心にそうことなのです。それは、神に喜ばれる奉仕をいっているのです。自分を犠牲にした奉仕こそ、神の御心を喜ばせているのです。
 このように、クリスチャンはキリストにならって、全く自分自身を神にささげ、神を第一とし、無私の生活、無我の奉仕をすべきなのです。これが愛の中に生きる生活です。
本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

 

十字架の奥義

2015年05月15日 09時13分03秒 | メッセージ
 【兄弟たちのために】
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」Ⅰヨハネ3章16節
 私たちが、イエス・キリストの十字架の贖罪を知り、信じて救われたとき、私たちは死より命に移ったのです。(Ⅰヨハネ3:14)とヨハネは言っています。私たちはもはや罪によって死ぬのではなく、イエス・キリストによって、永遠に生きる者となったのです。
 これはなんという驚くべきお救いでしょう。いのち、永遠の命を持つものになったのです。これは、まったく、主イエス・キリストのご愛によるものです。
 このキリストが私たちを愛して、いのちをお捨て下さっことを知った私たちは、また、隣にいる兄弟のために、いのちを捨てるべきなのです。
 キリストの愛を知ったクリスチャンの生きる道は、兄弟愛に生きることです。
 この兄弟を愛するということは
 第一にキリストに倣う生活をするということです。
 今やイエス・キリストは私たちのうちに、聖霊によって宿り、内住していてくださいます。
 このキリストが地上におられたとき、人々を愛されたように、今も、私たちを通して、周囲の人々を愛そうとしておられるのです。
 ですから、私たちが隣人を愛するとき、それはキリストにならった生活であり、歩みなのです。
 第二にいのちの生活です。
「愛さないものは、死のうちにとどまっている」(Ⅰヨハネ3:14)と書かれています。愛は愛することによって成長するのです。私たちがだれかを、少しでも愛し始めるとき、私たちの心は豊かにされ、広げられ、深められていくのです。愛のない生活に成長はありません。それは魂の死んだ、心の暗い生活なのです。
 第三に、神の愛にとどまる生活です。
 私たちが実際的に隣人に、愛を現しているとき、それは神の愛にとどまっている生活である(Ⅰヨハネ3:17)と言われています。私たちの愛は口先や、ことばで終わってはなりません。行いと真実をもってなさねばならないのです。
 主イエス・キリストの愛も、口先やことばだけではありませんでした。それは「ご自身のいのち」を捨てられた愛でした。
 私たちが兄弟のため、隣人のために、心を砕き、愛のわざに励んでいるとき、それは、私自身のわざでありながら、私自身のわざではなく、うちにおられるキリストの愛といのちの現れなのです。
本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

牧師・余白余録

2015年05月13日 04時58分00秒 | メッセージ
「ある家庭集会で学んだ真理を、神は体験できるようにしてくださいました。言い換えれば、神は救いを受けるために必要な信仰を私の内に培って、学んだ救いそのものを与えてくださいました。ある日、真理の現実性がいかに力強く私を捕えたかを思い出します。主をほめたたえ礼拝するクリスチャンの大きな集会に出た時です。たましいの内部で、神の御霊が喜んでいるのを感じました。私は泣いてしまいました。そのような深い、本当の美しさを感じたことがなかったからです。
 神の愛を感じている私は、イエスがこの地上に遣わされたのも同じ愛ゆえであるのが分かります。その愛がすべて真実で現実なものであると知って、喜びと平安を感じました。神が強く私を愛してくださったので、実際に神を父と呼んでもよいのだと急に気が付きました。神についの単なる知識にとどまらず、友また主としてイエスを知るようになってきました。
 宇宙において見ていた神の卓越性は、今や私を取り囲んでいます。また、それ以上に素晴らしい愛と臨在を味わい、分かち合っています。
 今この栄光をもっと体験するのが、心の最も深いところから出てくる願いです。ダビデはその気持ちを美しく歌っています。
『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主に家に住むことを。主の麗しさを見、その宮で、思いにふける、そのために。』
 素粒子物理学の世界は、聡明な力強い創造者としての神を認めるように私を導きました。そしてその神との個人的な接触は、神がいかに愛に満ちた方であるかを示しています。』結

牧師・礼拝説教(要約)

2015年05月11日 06時04分06秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 5月3日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 エレミヤ33章1~9節
・説教題  どんな時にも真実
▼私たちが悩み、はらはらさせられ、傷つけられ、憂えるのは、まだ信じていない親、子、兄弟ではないでしょうか。エレミヤは同族の預言者として、罪と偶像から立ち返り神のもとに戻ることを迫害の中に忍耐深く促した人でした。おそらく前625-586。ついにはユダ王国は彼の預言に従わないで、バビロニア帝国に捕囚にされました。神のユダに対する裁き、周辺諸国に対する裁き、選民が堕落して、バビロンに捕らわれの身とされるが、同族を見放さなかったのです。
 エレミヤは忍耐とあわれみの器でした。棒に竹を継いだような非情な人ではありません。神は傷つく彼に、33:6「見よ。私はこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。」と言われました。神はいつも真実に満ちています。神のことばを委ねられた者は、一方では峻厳な裁きを伝えますが、一方では罪を上回るあわれみと赦しと回復の心をもっていなければなりません。586年ユダ王国はバビロニアに捕囚されました。彼の哀歌はこの書に続きます。それ見たことかと呪い見放したりしていません。
 今日の私たちはエレミヤに倣いましょう。息の長い献身・配慮・意欲は欠けがちです。しかし、信を放棄しないで生きましょう。どんな困難に直面しても使命を続けるためには、こうした資質をもたなくてはなりません。信じた愛する者の中で彼は苦しみましたから、、より一層大変でした。人間的な頑張りでは続きません。神に慰めと励ましと働きの実とを見せていただかないとまいってしまいます。(捕囚の間に神を恐れ民を憂える人はダニエルとその友ぐらい)。しかし神は彼を高く評価しユダヤ人も今日、預言者の中で最も慕われていると言われます。
▼私たちはみな神によって生かされている者です。その神は2節「地を造られた主、それを形造って確立された主」です。この方は御子を赦しと救いのためにくださいましたから、罰は私たちに、赦しと救いは偶像を信じ、肉的な行き方をして、そのままでは滅びる周りの人々に用いましょう。その意味で、どうにもならないような場面に遭遇しても、この時こそ真実であろうと決意しなければなりません。イエスの十字架の重荷はさらに偉大で崇高です。福音を説きつつ、この世が終わり、御子が再び来られ、生存する者はだれもが主に従う、平和な御国が到来します。
▼神とすべての人々に、どんな時でも真実でありたいものです。

牧師・エッセイ

2015年05月10日 13時54分59秒 | メッセージ
『名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。』(箴言22章1、2節)

祈 り
☆多くの有益な集会や聖会の中を過ぎております。新しい人が、いろいろの形で来会し始めております。恵みが継続し、対応する心と信仰をも。
☆先週の関東地区女性大会はとても良い証や交わりが持たれました。
☆栃木聖化大会が今月31日に開催されます。今回の会場は兄弟団宇都宮教会です。祈り期待して臨みましょう。今回は合同讃美歌はありません。
☆本日は『母の日』です。

♪今週半ばの集会♪
5月12日(火)聖書に学ぶ会    10:30~
5月13日(水)ミニチャーチ集会  11:00~
5月16日(土)公園CS      15:00~  ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
13日の集会の場所については教会にお問い合わせください。
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。』(ルカの福音書10章42節) みことばを聞くことの大切さを学びました。

ガーデンスポット 
新緑  田植えの始まり

次聖日の礼拝説教 申命記8章1~20節「主を心に据えなさい」

十字架の奥義 

2015年05月08日 04時49分28秒 | メッセージ
【御霊の実を】
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22、23)
 イエス・キリストの福音は驚くべきものです。私たちの肉性を十字架につけますが、それとともに、イエス・キリストのいのち、キリストご自身を私たちのうちに付与してくださるのです。このキリストご自身の付与が聖霊なのです。キリストは、この聖霊によって私たちのうちに内住し、私たちを占領し、また支配してくださるのです。
 「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)とは、キリストご自身に占領され、支配されている状態を言っているのです。
 このキリストが、御霊によって私たちの内に内住されるとき、私たちの品性に、次の3つの大きな祝福が現われてくるのです。これを御霊の実といいます。
 第一に、自分自身に対して「愛、喜び、平安」(ガラテヤ5:22)の実を結ぶのです。
私たちの内にある自我、エゴ、肉性が十字架に打ち砕かれたところには、ただキリストご自身の臨在があるのです。心はキリストのご愛に占領されます。愛以外、何ものもないと喜びがいっぱいになります。そして、神にゆるされた喜びからくる平和、他人に対しても和解のできたことからくる安らぎが心に満ちてくるのです。どんな人をもうらやまず、何ものにも執着しない、ただ、キリストご自身に満ちた愛と、喜び、平安が心を占領するのです。
 第二に、隣人に対して「寛容、親切、善意」(ガラテヤ5:22)の実を結びます。
 御霊に支配された心には、隣人に対して愛以外に何もなくなるのです。これが寛容ともなり、親切として現われ、善意となって実を結ぶようになるのです。
 寛容とは長い忍耐であると言われていますが、ゆるす心、忍ぶ心ができています。また同情と愛をもって接する親切、常に隣人に対していだく善意の実が結ばれるのです。
 第三に、神に対して、「誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:23)の実を結びます。
 誠実とは人間関係においても大切な基本的品性です。それが神に対して、終生変わらぬ誠実さができてくるのです。また、神に対して柔和なもの、従順なものとなるのです。それは従いやすい柔らかな心です。そして自分自身を、常に自分自身を、神の御前に制する謙遜さが生まれてくるのです。
十字架は、私たちに聖霊を与え、そして、そこにこの美しい品性の実を結ばせるのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。 A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年05月07日 05時20分27秒 | メッセージ
・新しい来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ11:37-44「食事に招いたパリサイ人」
11:37 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。
11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。
11:39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
11:40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
11:41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
11:42 だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。
11:43 忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
11:44 忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」


問その1「だれがどのようにして、私たちの罪と汚れをきよめてくださるのでしょうか。」
(ヘブル9:14、Ⅰヨハネ1:7~9)

牧師・余白余録

2015年05月06日 05時54分07秒 | メッセージ
「…もう少し話を進めてまいりましょう。神が宇宙創造の際に示された卓越性と配慮について話してまいりました。しかし、それは神の本業ではありませんでした。至高の栄光ではないのです。神の卓越性が一番よく示されているのは愛においてです。神がその創造された巧みなみわざが分かってきますと、神の愛の素晴らしく優雅なところが味わえるようになりました。
 愛に示される神の卓越性は、イエス・キリストのご人格と使命のうちに見られます。そこに愛の究極の姿があります。聖書を読めば読むほど、イエスの一つ一つの行為がまぎれもない愛からのものであるのがわかります。イエス・キリストには利己的な考えが全くありませんでした。全生涯をかけて人を救おうという姿勢を貫いておられます。これまでだれも知らないほどの苦しい死を経験なさったのも、私たちに永遠の命を与え、愛深き父と子の愛だと同じような神との関係に入れさせるためでした。
 イエスは御手を広げて人々を招こうと招いている神の姿を描いておられます。無限なる神だけが無限の愛―招きを受け入れるすべての人への愛―をもてるのです。」続く