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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

インマヌエル讃美歌

2012年11月30日 05時09分12秒 | インポート
きよしこのよる(413)

1きよし このよる ほしはひかり
 すくいのみ子は  まぶねのなかに
 ねむりたもう いとやすく

2きよし このよる みつげうけし
 まきびとたちは み子のみまえに
 ぬかずきぬ かしこみて

3きよし このよろ み子のえみに
 めぐみのみよの あしたのひかり
 かがやけり ほがらかに

1818年12月25日にオーストリアのオーベルンドルフの聖ニコラウス教会で初演された。この歌にまつわる逸話として、"クリスマス・イヴの前日、教会のオルガンが音がでなくなり(音のでなくなった理由は諸説あり。)、クリスマスに歌う賛美歌の伴奏ができなくなり、急遽ヨゼフは“Stille Nacht”の詞を書き上げ、グルーバーに、この詞にギターで伴奏できる讃美歌を作曲してくれるように依頼。グルーバーは最初「教会でギターを弾いても誰も気に入らないのではないか?」と懸念していたが、ヨゼフの説得もあって詞に曲をつけることを了承。グルーバーは一晩中懸命に考え続け、ついにこの曲ができた。曲ができあがったのは教会でミサが始まるわずか数時間前のことであった"-という有名なものがあるが、近年の研究では数年前にヨゼフは詩を完成させていたという説が有力だ。しかし、グルーバーが短期間で作曲したのはたぶん正しいと言われている。
ウィキペディア フリー百科事典「きよしこのよる」より     A.O

12月2日からアドベント(待降節)です。「きよしこのよる」はクリスマスの讃美歌としてよく知られています。
クリスマスは教会で!そして、ご一緒に讃美歌を歌いましょう。

牧師・余白余録

2012年11月28日 04時36分17秒 | インポート
蔦田二雄著「セキナの栄光」PP13~131部分
「そして一体、信仰したために平安が来たとか、宗教を持ったために満足や喜びが来た、とかいう様な事をよく聞き、また書いてあるものを見るが、本当にそのような宗教から来る喜びとか、平和・平安とか満足感とか、あるいは明るさとか確信というものは、厳密に言うと、この神との自覚的交友から来るものでなければならないし、それ以外から出てこない。そうした内的な、神との関係が、とぎれたり離れたりせず、一度つながってそれがずっと継続されているならば、その内的霊的な事実から、感覚の世界において平安とか、柔和とか、謙遜とか、確信とかが自然に湧いて来るのである。そうした内的な霊的経験の確かさなしに、宗教的平安や喜びや寛大さを求め様とすると、それは根のない木を砂の上にさして、いたずらにそのさした木の枝から、リンゴや桃やみかんの実を求めているのに等しいものであって、それは愚かなことであり、それは聖書に教える宗教とおよそ道が違うものである。」
インマヌエル宇都宮教会産 しいたけ

牧師・ミ ニ チャーチ集会(要約)

2012年11月27日 05時26分32秒 | インポート
○祈り
○主牧、聖書:テサロニケ第二。4:16~18
主イエスが天からの空中に来られる厳粛な出来事。
1.三つの音声:「主の号令、御使いのかしらの声、神のラッパの響き」
2.移動:キリストにある死者と生き残っている者たちが引き上げられる。
3.喜びの面会:空中で主と会う。
4.永遠:いつまでも主とともにいることになる。
ヘンデルの「メサイヤ」でこの聖句を歌い奏でる部分をCDで鑑賞



牧師・礼拝メッセージ(要約)

2012年11月26日 05時05分03秒 | インポート
【先週の礼拝説教回想】11月 18日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 ルカの福音書5章17~26節
・説教題 助け合いの信仰
▼宣教は、行く人がなければできません。行く人は、キリストの救いを経験し、育てられ、訓練された者でなければなりません。多くは教会がその任を担うのです。教会は置かれた所において福音を述べ伝え、個人個人を救いに導くのです。宣教は最初と最後まで地元の教会が担うのでなければ出来ません。ですから、宣教とは地元がしっかりし、結果を出し、国内外に派遣することです。▼一人の中風を4人の男たちが中風をわずらっている人を床のまま運んで、屋根瓦をはがし、吊り降ろして、キリストの罪の赦しと、病のいやしを受けました。
1、隣人愛は助け合いによります。
連れられてきた中風の人は皆に愛され、助けられて来たのです。彼らは友人か身近な人たちで、この病人を担いで、主イエスに連れて行こうと相談して運んだに相違ありません。
クリスチャンはすでに主イエスの恩寵を経験しているので、自分の出来ることは率先してやる奉仕精神があるはずです。助け合うことで自他が生かされるのがクリスチャンです。
2、必ず伴うべきは、祈りと心と体と時間と費用の支出です。
何時もそばに居ることは限られているでしょうから、主要なことは祈ること、キリストに導くことです。結果を主にまかせて、人に喜ばれ、助けになればそれで良いという精神ですることでしょう。すべては神が受けとってくださるからです。犠牲は喜びを伴ったものです。
3、病む時に、人生の危機に、試練の時に親身になれる同信の友を造っておきましょう。
人はまず具体的な親切を通して人に尽くすことです。この中風の人は罪がまず赦され、体も癒されました。マルコ2:3によると、4人が彼を担いで、なりふりかまわず主の所に運びました。信仰です。彼らの信仰を見て主は、中風の人にまず、罪の赦しを告げ、次に体のいやしをなさいました。この意味で奉仕は自他を救うのです。最も良い奉仕、恩義に報いる道は、人を仲間と協力してキリストに持ち行く事です。
▼助け合いの信仰を発揮して行きましょう。


牧師・エッセイ

2012年11月25日 15時30分28秒 | インポート
『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』(ヨハネの手紙第一5章20、21節)

祈り
☆次週から待降節に入ります。
☆11月23日、東京中目黒教会で関東壮年部修養会がありました。

♪今週半ばの集会案内♪
11月27日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
12月 1日(土)公園CS
12月1日の集会の時間・場所については教会にお問い合わせください。
教会?028(621)8661

教会学校金言? 「あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。」(列王記第一8章61節) いつでもどんなときでも、神に従い続ける大切さを学びました。

ガーデンスポット
カエデの紅葉   銀杏の落葉   楢系の紅葉  ピラカンサ 
 秋の彩り「ピラカンサ」 

次聖日,12月2日の礼拝説教 マタイの福音書1章18~25節「寄せる約束の成就」


ふれあい

2012年11月24日 06時37分02秒 | インポート
―お金で買えないもの―
 現代の特徴の一つはお金がすべて、お金で買えないものはないという考えだと思います。私たちは普段こう言い、思っているとは思いません。でも今の日本ではお金があれば何でも手に入る、そういう錯覚をもつように十分なほどの豊かさが身のまわりにあるように思います。
 しかし、ほんとうに私たちに大切なもの、なくてはならないもの、私たちの心を豊かにするもの、それは案外お金に換算したり、お金で買うことのできないものだということに気がつきます。
 私たちは17年間インドネシアで宣教師をして働いておりました時、インドネシアトヨタの会長、彼は大変なお金もちですが、この方の豪華な応接間に、こんな言葉が額に入っておりました。英語で「お金で何が買えるか」と大きな文字が書いてあって、その下に買える物と買えないものが対称に並んでいます。さあ、お金で何が買えるか。「ベット」、しかし「眠り」は買えない。「食べ物」、でも「食欲」は買えない。「飾り」、でも「美しさ」は買えない。「家」、でも「家族」は買えない。「薬」、でも「健康」は買えない。「楽しみ」、でも「幸福」は買えない。・・・と書いてあるのです。左側にはお金で買える物、右側にはお金で買えないものが並んでいるのですが、お金で買えないもの、「安らかな眠り」、「健康な食欲」、「美しさ」、「温かい家庭」、「健康」、「幸福」・・・こういうものは、みんなだれもが求めているのではないでしょうか。
 聖書に「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント人への手紙第二4章18節)とあります。
 私たちの心も見えません。その心にともにいてくださる神、この神とともにイエス・キリストにあって生きる永遠の生命(永遠の神とともに生きる)、そういうものをここでは目には見えないものと言っています。私たちは目に見えないものに心を留め、心満たされて生きる時に、ほんとうの豊かさ、神に愛され、神とともに生きる内から湧き出るような、やすらかな思い、幸福感、温かい家庭が作られていくものです。「わたし(キリスト)が来たのは、羊(人間)がいのち(永遠のいのち)を得、またそれを豊かにもつためです。」(ヨハネの福音書10章10節)
太平洋放送協会「ふれあい」ラジオメッセージ第7集 安海 靖郎著 ラジオメッセージ集より引用・要約しました。A.O 


インマヌエル讃美歌

2012年11月23日 04時59分45秒 | インポート
わが主はしたいまつる(575)
①我が主は  慕(した)い奉(まつ)る  世に唯(ただ)一人の友
  よし  世の友は我を  捨て去るともなど寂しからん    ※よし・・・たとい。かりに
                                       ※など・・・どうして。なぜ
(くり返し)与えよ  与えよ  唯(ただ)主を我に
        世の富・知識  何物にても
        満たされ得ざる  我が胸に  


②我が主は  病(や)める時も  重荷に悩む時も
  我が身と共に在(ま)して
  慰(なぐさ)め  顧(かえり)み  助け給(たも)う   ※顧み・・・気にかける。
  (くり返し) 

③我が主を  捨てて他に  行くべき  ものはあらじ
  我が神  贖(あがな)い主  常(とこ)しなえまでも  我頼(たよ)らん
   (くり返し)

④我が主は  暗き世(よ)にも  輝く灯火(ともしび)なり
  採るべき道を示し  安らかに進み  行かせ給う
   (くり返し)
「すると、シモン・ペテロが答えた。『主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネの福音書6章68節)

主への感謝と献身の思いをもって教会でごいっしょに賛美しましょう。A.O


牧師・聖書に学ぶ会

2012年11月22日 05時11分43秒 | インポート
○新しい来会者のため、病める方々のための祈り
○学んだ聖書の箇所。ローマ人への手紙5章1~11節
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

『キリストの死を通しての神との和解』


カテキズム(教理問答)

2012年11月21日 04時43分17秒 | インポート
【救い主イエス・キリスト】

問30 神の子であるイエス様が、なぜ十字架におかかりになったのですか。
  私たちを救うため、私たちの罪を負って、身代わりとなってくださったのです。
聖書 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2章24節)
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(ペテロの手紙第一3章18節)
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ人への手紙4章25節)
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(マタイの福音書20章28節)


問31 十字架上で死なれたイエス様のおからだは、その後、どうなりましたか。
  アリマタヤのヨセフという人によって墓に納められました。
聖書 「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」(マルコの福音書15章46節)
「ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。」(マタイの福音書27章59、60節)
「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」(ルカの福音書23章53節)


問32 イエス様はその後、どうなられましたか。
答   三日目に復活され、四十日の間、しばしば弟子たちに現われて、ご自身のよみがえられたことを示されました。
聖書 「「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」(ルカの福音書24章34節)
「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイの福音書28章6節)
「青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』(マルコの福音書16章6節)
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1章3節)
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(コリント人への手紙第一15章3~5節)

インマヌエル少年文庫5  カテキズム(教理問答)より引用しました。A.O

聖書、神様について知りたい方は教会の門をたたいてください。
教会は毎週日曜日:10:45~礼拝、火曜日:10:30~聖書に学ぶ会、
木曜日:11:00~ミニチャーチ集会で
聖書からお話をしております。