―あらしの中の人生― その1
苦難の人生
「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」
(マルコの福音書4章35節~40節)
この事件の中から、私たちは、私たちの人生について深いいろいろの事実を知ることができると思います。
まず第一に、弟子たちはイエスを信じ、従ったのです。
しかも、イエスが自分たちの乗った船の中にいらっしゃるにもかかわらず、彼らはあらしにあったのです。すなわち、たとえクリスチャンであっても、人生の苦難のあらしを避けることはできないということです。私たちの人生には突風、地震、火事がおとずれてくるのです。人により貧乏、病気、家庭の不和、誤解、死別という苦難の中に、波の中にもてあそばれるのです。「人生」すなわち「生きる」とは「苦しむ」ことです。
だれがこの苦難から逃げだすことができたでしょうか?
キリストの福音は決して、私たちがキリストを信じればもう病気もなくなります。貧乏にもならなくなります。なにもかもみんな平穏無事になりますとは言わないのです。「世に在りては、汝らは苦しみがあるのだ」とはっきり言うのです。そればかりではなく不思議なことに、イエスご自身は、貧しい人は幸いである、悲しむ人は幸いである、いろいろあざけられる人は幸いであると言うのです。キリストの福音は、苦しみに対して目を覆ってしまうこと、苦しみから逃げだすことを教えるのではなく、この苦しみを変えて本当に喜びとするその秘訣を教えるのです。
羽鳥 明著「あらしの中の人生」信仰良書選50より引用・要約しました。 A.O
苦難の人生
「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」
(マルコの福音書4章35節~40節)
この事件の中から、私たちは、私たちの人生について深いいろいろの事実を知ることができると思います。
まず第一に、弟子たちはイエスを信じ、従ったのです。
しかも、イエスが自分たちの乗った船の中にいらっしゃるにもかかわらず、彼らはあらしにあったのです。すなわち、たとえクリスチャンであっても、人生の苦難のあらしを避けることはできないということです。私たちの人生には突風、地震、火事がおとずれてくるのです。人により貧乏、病気、家庭の不和、誤解、死別という苦難の中に、波の中にもてあそばれるのです。「人生」すなわち「生きる」とは「苦しむ」ことです。
だれがこの苦難から逃げだすことができたでしょうか?
キリストの福音は決して、私たちがキリストを信じればもう病気もなくなります。貧乏にもならなくなります。なにもかもみんな平穏無事になりますとは言わないのです。「世に在りては、汝らは苦しみがあるのだ」とはっきり言うのです。そればかりではなく不思議なことに、イエスご自身は、貧しい人は幸いである、悲しむ人は幸いである、いろいろあざけられる人は幸いであると言うのです。キリストの福音は、苦しみに対して目を覆ってしまうこと、苦しみから逃げだすことを教えるのではなく、この苦しみを変えて本当に喜びとするその秘訣を教えるのです。
羽鳥 明著「あらしの中の人生」信仰良書選50より引用・要約しました。 A.O