『宇都宮教会のいろいろ』   ☆ブックマーク欄「宇都宮教会ホームページ」も併せてご覧ください。

インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

人生のかぎ

2015年02月28日 07時02分53秒 | メッセージ
輝く生涯  ―エミ・カーマイケル― 
もしあなたが、すべてのことにおいて主であるキリストを第一とする決意に堅くたち、主の御旨と栄光と喜びとをすべてよりも重要とし、主があなたを愛されたように互いに愛されたように互いに愛し合って、主の愛の中にとどまり続けるならば、すべてはよく生き、永遠によくなされるだろう」。
 エミー・カーマイケルは歌う心の持ち主であった。豊かな感受性は、芸術的で輝いている。歌の賜物はその詩に現わされた。私たちの世代における詩と散文との筆の奉仕において、ドナヴァーのエミー・カーマイケルと並べる人は非常に少ない。神の忠実さの勝利と、信仰の試みに対する彼女の心の応答は、世界の各地で印刷されている。一つの詩が他の全てを十分に説明するであろう。
 打ちつける激しい風を避けさせてくださいという祈りから
 高く登るときに高きを恐れる恐れから
 さらに高くのぼるときによろめいてしまうことから
 絹のような自らを解き放ってください。
 ああかしらなる主よ。
 私たちはあなたに従おうとする兵卒です。(つづく)
V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O



十字架の奥義

2015年02月27日 09時04分03秒 | メッセージ
 【肉のからだが滅びる】
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙6章6節)
 私たちは、しばしばあまりに罪深い自分の姿に驚き、悲しむものです。使徒パウロは、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と、嘆いています。私たちは、罪を犯すから罪人ではないのです。罪人だから、罪を犯すのです。私たちは、この罪の性質をもっているのです。これを肉ともいい、古い人、罪の体をもいうのです。
 しかし、感謝しましょう。キリストのあの十字架、この悩みを解決してくださっているのです。
 私たちが、主イエス・キリストの十字架を仰ぐ時、そこの、私の古い人、罪の体が十字架につけられているのです。そこに、私たちの罪の源は死んでいるのです。それは、第一に、キリストとともに葬られているのです。(ローマ6:4)
 私たちが、主イエス・キリストを信じてバブテスマを受けた時、キリストの死にあずかったものとして、私たちの古い人は葬られてしまったのです。すなわち、私たちの古い人は死んだのです。
 第二に、罪から解放されているのです。(ローマ6:7)
 イエス・キリストと死んだ者は、もはや罪とのかかわりあいがなくなったのです。罪より解放され、自由になったのです。それは、もはや、罪を犯す必要もなく、罪にとらわれることもないからです。
 クリスチャンのある人々は、「私たちは、一生の間、罪から離れることができないものです。それで、罪を犯すことはやむをえないのです。そして、信仰生活とは、毎日、罪の悔い改めをすることです。」と、考えているのです。しかし、これは正しい考え方ではないのです。しかし、これは正しい考え方ではないのです。クリスチャンは罪から自由になった者として、罪に打ち勝つことができるのです。
 第三に、キリストとともに生きるのです。(ローマ6:5、8、11)
 キリストとともに死んだ者は、キリストともに復活し、キリストとともにいきることができるのです。それは、キリストとともに新しいいのちの生活を始めるのです。
 クリスチャンとは、キリストとともに生きている者なのです。ですから、私たちのからだを、神の御前に義の器としてささげるべきなのです。(ローマ6:12-14)

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年02月26日 05時23分06秒 | メッセージ
・新来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ7:36-50「パリサイ人シモンと香油を塗った女」
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


(問)「シモンの姿を通してあらわされる人の心と表向きの態度とについて感じることを話し合ってみましょう。」

牧師・余白余録

2015年02月25日 05時49分31秒 | メッセージ
バニアン 天路歴程 正篇 池谷敏雄訳pp94-95新教出版社
さて山頂に達した時、二人のものが大急ぎで駆けて彼に会いに来た。一人の名は臆病者と言い、今一人は不信者と言った。その二人に向かってキリスト者は言った。「どうしたというのです。あなたがたは間違った道を駆けて行きますね。」臆病者は答えた。「私たちはシオンの都に行く所で、あの難儀な所を上ってきたのですが、行けば行くほど危険にぶつかるので引き返してまたも帰ろうとしているのです。」「そうです。」と不信者は言った。「というのは行く手には二匹の獅子が私たちのちょうど前方におって、眠っておるのやら起きているのやら、たちまち私たちを八つ裂きにしてしまうだろうとしか考えられないのです。
「キリスト者、あなたがたは私を怖がらせますね。しかし私はどこにのがれて安全になりましょう。もし自分の国に帰るとすれば、それは火と硫黄とが約束されていて、自分は必ずそこで滅びるでしょう。もし天の都に達することができれば、私は必ずそこで安らかとなります。私は一か八かやってみなくてはなりません。戻ることは死以外ではなく、進むことは死の恐れと、死のかなたにあるとこしえの命です。私はさらに進んでいくつもりです。」そこで不信者と臆病者とは丘を駆け下り、キリスト者は自分の道を進んで行った。

牧師・礼拝説教(要約)

2015年02月23日 06時09分09秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 2月15日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 ヨハネの福音書14章20~27節
・説教題 主の内住が私に
▼信仰に誰でもでき何かの奥義というようなものがあればいいのだがと問われれば、自分のうちに住んでいただくことと言えます。ここでは「主の内住」としましょう。前提条件として23節『だれでもわたしを愛する人』その人は『わたしのことばを守ります。』と主イエスは語られました。これは彼を信じてクリスチャンになった人と言われています。つまり自分のためにこの世に来られ、私の罪の赦しと、偉大な救いとのために神の御子が十字架の死を遂げ、復活しておられることを受け入れた人々で、生まれ変わった人であるわけです。キリストを愛し、そのことばを守るものとされていなければなりません。そうですと、23節後半に「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」です。16章には聖霊も加わられます。つまり、三位一体の神がです。主イエスを信じ、愛し、従う者に神は進んで宿る所となるわけです。主イエスを愛することのために、まだ迷い、不理解だったり、結果だけを求めて、条件を果たさないでいるために、この秘義を持ちかねているクリスチャンが多いかもしれません。『内住のキリスト』をの著者A・B・シンプソンはある個所で『あなたは新生した。しかし、私は、ある一定のことの成就するまで、すなわちキリストご自身があなたのうちにお生まれになるまでは産みの苦しみをする(ガラテヤ4:19)。それはあなたが新たに生まれる以上のことである。それはあなたの新生した霊魂の内にキリストご自身がなさることである。あなたの胸にしまってある貴重な黄金の手箱が開かれて、その底に黄金の手箱よりもさらに他の宝物が納められるのである。キリストご自身の生ける臨在というきらめく宝石が、あなたの心の最も深いところに納められるのである』と言います。
▼この驚くべき神の内住の喜びと平静さ、自己の消去と神との同化がその人の内になされるということです。これは神殿の中の至聖所と同じ所とされ、一切の敵は近づき壊してはならない厳粛な神の宮とされていることになります。自他共に神を恐れ、愛し、従う心はそこから発してしかるべきです。
▼まだこうした恵みに至っていない方々がいますなら、世につく欲、惑わし、思い煩いなどを捨てましょう。それらを脱するために、一人一人、一つの安定した在り方、生き方を極めて生きましょう。悩みでだめになるよりも、それらに戦い勝つ方がはるかに、善いではありませんか。
▼23節、主の内住の経験に生きましょう。

牧師・エッセイ

2015年02月22日 14時16分11秒 | メッセージ
人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。
財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。』(箴言19章3、4節)


祈 り 
☆先聖日、礼拝に出席された会員、ご家族のために。
☆体調不調の戦いの中にある会員のために。
☆教団年会の青年大会〈3月28日 中目黒教会〉、29日合同礼拝(青山会館)のために。

♪今週半ばの集会♪
2月24日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
2月26日(木)ミニチャーチ集会 11:00~
2月28日(土)公園CS      15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
2月26日の集会の場所については教会にお問い合わせください。
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』(マタイの福音書5章3節)イエスが教えてくださった幸いについて考えました。

ガーデンスポット
梅  椿の蕾  

次聖日の礼拝説教  ローマ人への手紙2章6~11節『神のえこひいき?』

人生のかぎ

2015年02月21日 06時45分32秒 | メッセージ
輝く生涯  ―エミ・カーマイケル― 
10月27日〔エミー・カーマイケルの日記より〕郵便到着。アイリン・ストリーターの友より、兵士であったその兄弟の遺産50ポンド。畑で除草をしている子どもたちのところへ手紙をもって行き、サボテンの生け垣のかげに立って、みんなで讃美する。その他にも送金があった。何か月もの送金の合計よりも多く、一度の配達で送られてくる。みんな大いに元気づけられ、大いに主をかしこみたたえた」。
 聖霊に満たされた生涯は実際的である。エミー・カーマイケルもこれを知った。彼女は導きの問題において、後ろを振り返ることではなく、祈り、信頼し、従うことを学んだ。
「決心を学ばなければならない時、後ろを振り返って自分は何がなされるのを願うなどとは考えてはならない。見上げなさい。私たちの主なるお方が私たちにさせようとしておられることをするために光が与えられるであろう。
 働きの性格を変えるように見える決心をしなければならないかもしれない。しかしもし、初めから、私たちの従ってきた根本原則が堅く守られるとすれば、本当の意味での変化はないであろう。川は新しい道を通って流れるかもしれない。しかし、その川は同じ川なのである。
V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O


十字架の奥義

2015年02月20日 05時46分42秒 | メッセージ
 【肉性の死】
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ人への手紙5章24節)
 アダムの堕罪によって、堕落した人間は、すべて肉の人となりました。肉とは肉体のことではなく、肉体をも支配している堕落した人間性なのです。これは、人間の生まれつきの性質のことをいっています。
 この肉性は神を喜ばすことも(ローマ8:8)、神に従うこともできません。(ローマ8:7)かえって、神に逆らうものです。そこから出てくる思いは死に至らせます(ローマ8:6)。
 そして、その行いは罪なのです。
 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(ガラテヤ5:19-21)。
 これこそ、クリスチャンを悩まし、堕落させ、罪に道に走らせるものです。この肉性が死ぬということ、これが、主イエス・キリストの十字架の上で成就されているのです。
 イエス・キリストが十字架で死なれた時、私たちの肉性もともに死んでいるのです。
 自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラ
テヤ5:24)
 これこそ、主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた恩寵の御業なのです。それは十字架による罪のゆるし、義認の恩寵とともに、さらに進んで、私たちの内心に成された深い御業なのです。それは、
第一に肉性の磔殺です。
主イエス・キリストはニコデモに、
「肉によって生まれたは肉です」(ヨハネ3:6)と、言われましたが、堕落したアダムの子孫である人類は、みな肉の人となりました。これは、死なねばならないものです。しかし、主イエス・キリストは十字架上のご自身の死によって、私たちをともに死んだものとしてくださったのです。私たちの肉性はすでに死んでいるのです。
第二に肉的感情の磔殺です。
私たちの生まれつきの性質は、わがままな思いに走ります。怒り、憎しみ、敵意、そね
み。時には過度の愛情、執着と。しかし、これらの感情も、思考、思想までもキリストの十字架によって解決を見ることができるのです。
第三に肉的欲情の磔殺です。
肉的な人は肉的欲望の奴隷になっています。イエス・キリストの十字架によって、この卑しい肉的欲望の奴隷になっています。イエス・キリストの十字架によって、この卑しい欲望からさえ聖別されることができるのです。
 私たちは、キリストとともに十字架で死んでいるのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年02月19日 05時38分02秒 | メッセージ
・新来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ7:36-50「パリサイ人シモンと香油を塗った女」
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」


(問)「彼はなんのためにイエスを招待したと思いますか。」

牧師・余白余録

2015年02月18日 05時23分22秒 | メッセージ
旧約聖書イザヤ書40章26-31節
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」