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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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人生のかぎ

2015年01月31日 06時44分19秒 | メッセージ
輝く生涯  ―エミ・カーマイケル― 
宣教師としての生涯の初期に、彼女は強い方の強さをも学んだ。日本の松江の村にいた時、隣人に狐の霊につかれた(そう彼らは呼ぶのだが)人があった。日本人は悪霊の現実を知ってはいたが、その恐ろしい鎖から救われる方法は何も聞いたことがなかった。カーマイケルと三崎さんは、悪霊につかれた人のために祈ろうとして、招かれもしないのに出かけて行ったが、追い出されてしまった。しかし、追い出される前にその人の妻に向かって、「ご主人が狐の霊の力から救い出されるまで家で祈っています」と請け合った。一時間としないうちに使いが来て、すべての狐―六匹の狐―がみな出て行ったことを伝えた。翌日、その人は完全になおって、祈りに対する感謝の気持ちとして、花のついたザクロの枝を持って来た。その人は何カ月かしてマラリヤで死んだが、その時は全くの平安に満たされ、その手には新約聖書が握られていた。こうして彼女は、「あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」ことを、実際の戦いを通して学んだのである。

V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O

十字架の奥義

2015年01月30日 05時38分04秒 | メッセージ
 【永遠の贖い】
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル人への手紙9章14節)
 キリストが十字架で血を流された時、それは私たちのあがないでした。その死はいわゆる殉教の死ではなく、人類の救いのためでした。それは神の御子であられるキリストご自身が流されたあがないの血でした。
キリストが最後の晩餐で言われた、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)とは、新しい契約の血潮のことでした。このキリストの血によって
第一に、永遠のあがないが成就しました。
「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)
旧約においては山羊や子牛の血を流して人々の罪のゆるし、あがないをしていましたが、それはいくどもささげられるものであり、また十分に人々を罪より救うことはできなかったのです。しかし、キリストが十字架で死なれた時、完全なあがないが、永遠に成就したのです。キリストはただ一度十字架につかれました。しかし、それで十分でした。それは、神の子、ご自身の血潮であったからです。
第二に、ご自身をとこしえの御霊によってささげられたのです。
「キリストが傷のないご自身を、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、その血は、…」(ヘブル9:14)
キリストご自身が、とこしえの御霊によって、ささげられた血であると、聖書は言っています。2000年前に十字架で流された血潮が、現代もなお、力があり、罪よりきよめるのは、それが、とこしえの御霊によってささげられたからです。
永遠より永遠に存在される三位の神のおひとりである聖霊は、いまも働いておられるのです。そのためにイエス・キリストの十字架の血は(1)良心をきよめ、(2)死んだおこない、すなわち罪から離れさせ、(3)神に仕える者、としてくださるのです。
第三に、永遠の資産を受け取ることができるのです。
「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、…召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」(ヘブル9:15)
永遠の資産とは、永遠のいのちであり、神とともにある御国の栄光を言っているのです。
私たちは、このキリストの血じよって、今や、永遠の資産、神の祝福を受け継ぐことができるのです。キリストの血こそ、新しい契約であり、永遠のあがないなのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2015年01月29日 05時20分01秒 | メッセージ
・新来会者のための祈り
・学んだ聖書の個所。ルカ7:11-17「やもめと死んだ息子」
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
7:16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。
7:17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。


(問)民数記19:11-22の背景からみて、棺に手をかけるという行為は、どのようなことを現わしていますか。

牧師・余白余録

2015年01月28日 05時44分24秒 | メッセージ
「神を見出した科学者たち」PP.66,67いのちのことば社出版より
『物理学研究で似たような例があります。ニュートリノについて実験したのですが、この素粒子は地球の一方の側から内部を通過して反対側へ出てくる奇妙な粒子です。ニュートリノを検出する正しい設備がなければ、それがあるとは決して分からないでしょう。事実50年前にはその存在をだれも知らなかったのです。今日でも、検出するには重さ300トンの「フラッシュ検出器」が必要です。ビームの中の数兆個のニュートリノのうち、数個が検出器に衝突します。検出器は実験用に準備された数万本のネオン管でできていて、高い電力がかかり、白熱寸前の状態にあります。電荷粒子が1本の管にぶつかると、管は白熱して通過を報告し、それがどこで起きたのかを正確に告げます。ニュートリノが五官で捕えられないからと言って、それが存在しないということにはなりません。…同じように、生まれながらの心と五官を用いては、神の真理の現実性を発見できません。私たちが自分の感覚によって神に真理を発見してほしいとは望んでおられないと思います。そうなれば、私たちは真理を自分の発見だと主張するでしょう。そして、その美しさはすべて破壊されるでしょう。神は私たちを愛しておられるので、ご自身の真理を贈り物として与えようとしておられます。』

牧師・ミニチャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2015年01月27日 05時41分52秒 | メッセージ

・祈りの諸課題の祈祷
・聖書:主牧 詩篇121篇
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 神の山々の創造と私たちへのご配慮。10年前ある会員に先導され、尾瀬沼の木道を歩いたことを、白川義円が撮った著書「尾瀬夢風景」のように忘れられません。
 

牧師・礼拝説教(要約)

2015年01月26日 06時42分02秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 1月18日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 ヘブル人への手紙12章1~12節
・説教題 競技から学ぶ信仰
▼ 私たちの信仰は聖書に基づきます。聖書はイエス・キリストを指し、それは即、道であり、真理であり、いのちなのです。従ってすべての人が生かされる唯一の権威なのです。それは、神の御子として、父なる神と等しく人を愛し、聖霊によって、十字架の苦しみを受け、罪と死に勝ち、復活して、信じる者に罪のゆるしと死に勝つことと復活を獲得なさいました。だれにも臨んでいる、罪と死と律法と悪魔に勝たせてくださったのです。これが、滅びに定められた人間への救いの方法でした。これはまことの道でありいのちであり真理でした。これを悟り神の絶大な愛と恵みと救いを経験する時、あらゆる世界から、そこに横たわるいのちの筋道を見出して、奥義の自由に入らせられることを聖書記者たちから学ぶのです。
▼彼らがたとえ未信者であろうが、法に従って勝利しているならば、聖書で言う信仰と一致していることを語っているでしょう。12:1には、おそらく聖書記者は、ローマの競技場での競技者たちを想定してここでは述べていよう。
 スポーツランナーから多くの励ましと歓喜と活力をいただきます。種類を問わず、真剣に励み戦う競技から多く学びます。日本人に限定し、身近な人には、作新出の荻原公介選手、、競輪の王者であった神山選手、作新学院高校出身のプロ野球の江川選手、元ボクシングのWBCチャンピオン粟野町出身のガッツ石松、世界卓球の鹿沼市出身平野選手、県を越えてテニスの錦織圭選手、フィギャアスケートの浅田真央選手、羽生結弦選手、アメリカプロ野球に移っているダルビッシュ投手、田中将大投手、スキージャンプの高梨沙羅選手、柔道の歯むき出しの松本薫選手などがおります。大相撲の白鵬はクリスチャンではなくしかもモンゴル出身で日本人以上の日本的な道に精進し、大横綱になりつつあります。いろいろと学び、節制し、精進していることなどにだれでも教えられるものがありましょう。
・ガッツ石松のひとりごと(パソコンから)
嵐の中でも時間はたつ
  とき
どうにもならない時には、どうあがいてみてもどうにもなるものではない。
そんなときにはじっと力を蓄えて待つ以外にはない。時が解決の女神になるよ。
耐えるたびに、少しずつ人生が見えてくるのだ。
・私たちの「精進」は多くの仲間を励ましましょう。ですからまとわりつく罪と重荷を捨て、忍耐をもって走り続けることを聖書記者は勧めております。必ずしもトップになるのではなく自分のできる、走り方で、他にない立派な誉を褒美をいただこうではありませんか。
▼この世の競技者からも学びましょう。


牧師・エッセイ

2015年01月25日 15時56分25秒 | メッセージ
『反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。 人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。』(箴言18章19~20節)

祈 り 
☆病床にある方を、牧師たちはお見舞いし、恵みをいただいてもどりました。

♪今週半ばの集会♪
1月27日(火)聖書に学ぶ会   10:30~
1月31日 (土) 公園CS      15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。』(マタイの福音書11章6節)主イエスが聖書で約束されていた救い主であることを学びました。

次聖日の礼拝説教
マルコの福音書4章11~20節『みことばの行方―他のことばに警戒』

人生のかぎ

2015年01月24日 06時09分23秒 | メッセージ
輝く生涯   ―エミ・カーマイケル―
 この経験から別の尊い教訓も与えられた。カーマイケルは言う。「わたしの皮の手袋に対する老婦人の感動は想像もしないものでしたが、何千時間もの時を自由なものとしてくれました。と申しますのは、人々が衣服のことに少しも時間をかけずに暮らすならば、長いあいだには大きな時間の節約になるのですから。それはまた、お金の大きな節約にもなりました。一つの衝撃によって余計な衣服は切り捨てられ、そのために費やす必要は何もなかったからです。この全ての時間と金銭の節約は、私たちに全てを与えてくださったおかたにささげるために、実に大きな意味がありました。しかし、それ以上に、私の信じるところでは、以前には決して開かれなかったような門戸が開かれるようになったことです。インドでは外国の衣服を着けていたのでは、何事についてもほんとうのことを知るために、必要な所へはいることは、とてもできなかったでしょう。それよりもさらにはるかに大きなことは、心の門が開かれたことです。もしこれを疑う人があれば、私は『このことは大敵にとって、主に近づけられているたましいをそらせるのにいささか困難になった』とだけは言えます。

V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O



十字架の奥義

2015年01月23日 05時28分59秒 | メッセージ
【イエスの血】
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネの手紙第一1章7節)

主イエス・キリストがカルバリーの丘の上で十字架につけられた時、終始その傍らにいたのは、主イエスの弟子ヨハネでした。その両手より、その御足より流れる血を見ていました。主がやがて息を引き取られた時、ローマの兵卒がやりで、主の御脇腹を刺し貫いたのも見ていたのです。その時、その御脇より血と水とが流れ出たのも見ました。(ヨハネ19:34)
おそらくヨハネのこの時、まだ主の十字架の意義、そして流された血潮の意義を十分に知ることができなかったのでしょう。しかし、ペンテコステの日、聖霊が下った時、彼の心の目は開かれ、キリストが十字架で流された血潮の意義を知ることができたのです。
そして、キリストこそ、世の罪を取り除く神の小羊であり、流された血潮こそ、贖罪の血であることを知ったのです。また、その能力を信じることができたのです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)と。このキリストの血潮こそ、私たちの信仰のよりどころなのです。
キリストの十字架の血潮は
第一に、私たちを光の中に入れるのです。
罪は、私たちの心を暗くし、生活を乱してしまいます。しかし、イエス・キリストの十字架の血潮の贖罪を信じる時、私たちの罪はゆるされ、きよめられて、心は光の中に入ることができるのです。それは偽りのない、真実な心と変えられるのです。
第二に、私たちは互いに交わることができるのです。
罪は神より引き離してしまいます。しかし、イエス・キリストの血によって罪がゆるされる時、神との交わり、主イエス・キリストとの交わりにはいることができるのです。
神は光です。私たちが、十字架の血潮を信じる時、そこには神との幸いな霊の交わりが始まるのです。
第三に、私たちは罪に勝つことができるのです。それは「あなたが罪を犯さないようになるためです。」(Ⅰヨハネ2:1)
主イエス・キリストの血には、私たちを罪より離れさせ、罪より守り、罪に勝たせる力があるのです。ここに、神とともにいるきよい生活が始まるのです。

本田弘慈著「十字架の奥義」より引用・要約しました。A.O

 牧師・ミニチャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2015年01月22日 05時42分48秒 | メッセージ
・祈りの諸課題の祈祷
・聖書:主牧 ヨハネ音福音書15章5節
 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」
主イエスはそれだから、実を結ぶために、「わたしにとどまっていなさい」と諭されました。キリストの言葉を守り、その御愛に生きることによって。ぶどうは聖書では、神が人に与えられた生命的な果実です。エッセンシャル聖書事典から「ぶどう」「ぶどう酒」の項を開く。キリストとの信仰と愛の関係で、私共が豊潤な香り・人柄が造られるよう願おう。