マリヤの讃歌 マルティン・ルター著「マリヤの讃歌」岩波書店
(訳本 古い言葉は、現代語に変えております。)
「真に謙虚な人々は謙虚な結果に目を向けない。彼らは純朴な心をもって卑しい事物に目を向け、好んでこれに携わり、しかも自ら自分の謙虚な事をすこしも分からない。水は泉から湧いて出る。この時、求めないで、自ら彼らは細やかで卑しい挙動、言語、住居、風采、衣服を身につけて歩き、できる限り尊貴高大な事物を避けるようになる。そのことをダビデは言う。「人の子の間で卑しいことが崇められるときには、悪しき者がいたるところで横行する」、またヨブ記に「遜る者は誉れに至り、その目を伏す者は福祉を得ん」とある。それゆえこのような人には常に栄誉が思いがけなく与えられ、彼らは思いがけない尊貴をえるということにもなる。これは彼らが甘んじて単純にその微賎な境遇を満足し、高きを願わなかったからである。
似て非なる謙遜家は自分に栄誉と尊貴をもって満足せず、ひそかに思いをひたすら高く高くへと馳せるのみである。
それで私が述べたとおり、真の謙遜は自分の謙虚なことを少しも知らないでのである。そう、もし知っていたならばこの美しい徳の姿に慢心するであろう。真の謙虚はむしろ情意、心情、全精神を込めて微賎なことがらに思いをかけ、これに絶えずその目を向ける。・・・
御使いの挨拶はマリヤの目には不思議に思われ、マリヤはこれはどういう挨拶だろうと考えた。彼女はこのような挨拶を予期していなかったのである。もし仮にこの挨拶がカヤパの娘にもたらされたとすれば、これはどういう挨拶であろうとなどとは考えずに、すぐさまこれを受け取って、「まあ、それ結構、至極もっともなことだ」と考えるであろう。
(訳本 古い言葉は、現代語に変えております。)
「真に謙虚な人々は謙虚な結果に目を向けない。彼らは純朴な心をもって卑しい事物に目を向け、好んでこれに携わり、しかも自ら自分の謙虚な事をすこしも分からない。水は泉から湧いて出る。この時、求めないで、自ら彼らは細やかで卑しい挙動、言語、住居、風采、衣服を身につけて歩き、できる限り尊貴高大な事物を避けるようになる。そのことをダビデは言う。「人の子の間で卑しいことが崇められるときには、悪しき者がいたるところで横行する」、またヨブ記に「遜る者は誉れに至り、その目を伏す者は福祉を得ん」とある。それゆえこのような人には常に栄誉が思いがけなく与えられ、彼らは思いがけない尊貴をえるということにもなる。これは彼らが甘んじて単純にその微賎な境遇を満足し、高きを願わなかったからである。
似て非なる謙遜家は自分に栄誉と尊貴をもって満足せず、ひそかに思いをひたすら高く高くへと馳せるのみである。
それで私が述べたとおり、真の謙遜は自分の謙虚なことを少しも知らないでのである。そう、もし知っていたならばこの美しい徳の姿に慢心するであろう。真の謙虚はむしろ情意、心情、全精神を込めて微賎なことがらに思いをかけ、これに絶えずその目を向ける。・・・
御使いの挨拶はマリヤの目には不思議に思われ、マリヤはこれはどういう挨拶だろうと考えた。彼女はこのような挨拶を予期していなかったのである。もし仮にこの挨拶がカヤパの娘にもたらされたとすれば、これはどういう挨拶であろうとなどとは考えずに、すぐさまこれを受け取って、「まあ、それ結構、至極もっともなことだ」と考えるであろう。