小学校の頃から,広島市には7本の川と教えられてきたが,実際は6本しかないし・・と思っていた。
横川の方にあった川を埋めたらしいとは聞いていたが,今回まじめに家にある古地図を見てみた。
まずトップ画は,数年前の国土地理院の地図(カシミール)
今回は,解像度を横1024にして,特別公開です
昭和33年印刷の地図。
この地図には,中広中学校の北側に,まだ川が東西に流れているのが判る
また,写真の放水路の一番南側に入っている橋の名前は「新旭橋」 現在の「旭橋」(上をバイパスの高架が通っている橋)
その1本上流にあるのが,当時の「旭橋」 今は無いね。
平和大通りには既に,新己斐橋が見えるが,その少し上に斜めに橋がある。
自分が幼稚園かその前の記憶だが,広電路面電車は,専用木造の橋を通っていた記憶があるし,現在の観音町交差点は通っていない記憶があって,おかしいな??とずっと思っていた。
この地図ではっきりしたが,確かに,ご幼少のみぎりの記憶は正しかった。電車は福島町のど真ん中を東西に突っ切っていたのだ。
ちなみにこの時代には,広電は土橋町で北進して十日市へ続いている。
さて,その「新旭橋」の北側には,まだ幻の「福島川」の南端が残っているのが判る。
これは,昭和13年頃の広島市の地図
赤く太く書かれているのが,「都市計画線」とある。まだ,西区の国道二号線も計画の段階である。
広島城は,「大本営」「第5師団司令部」,広島城の東側は「歩兵第11連隊」などと読み取れる。
広電は,現在の中国新聞社の北側まで己斐から真っ直ぐ東進し,ここから直角に北進して現在の本川町電停あたりで,東西に延びる横川線(?)に連結している。
何故,土橋-横川筋の2本東側に太い道路が南北に一本あるのかちょっと不思議に思っていたが,昔電車が通っていたからなのかあ(納得)
さて,なぞの「福島川」,この時代であれば,はっきりと見えるね。横川の南側で,西に向けて分岐して,その後南進していたのだ。この地形,洪水に弱そうだ。
現在の太田川放水路は,「山手川」の名称となっている。
現在の可部線は「廣濱鐵道」と書かれ,現在の横川駅より東側から弧を描いて北進している。昭和11年に鉄道省に買収されたとある。
この地図は,明治6年印刷とあった。が,
広島城は,「西練兵場」「歩兵11連隊」となっている。歩兵連隊は「明治8年に廣島にできた」とあるので,ちょっとおかしいな。
おまけに,山の標高線がちょっと詳しすぎだな。まるでそこだけ,近世の等高線を貼り付けたみたいだ・・・
この地図本当に明治6年印刷なのかな。いとあやし
我が家最古の地図
漢字ばかりで読みにくいが,どうも「元治元年甲子」とある。多分1864年。明治維新の数年前の地図らしい。
現在の広電の紙屋町周辺はお堀になっている。
なんと,広電宇品線のある所は,お堀から延びる川のようだ。知らなかった!もしかすると船が上がっていたのかな。
また,広電白島電停から南に向けてもお堀が延び,国泰寺新開で海に注いでいる。
2本とも真っ直ぐだから,多分人工の用水路なんだろう。
母方の実家は,商家であったためか,名前が載っていない。アンデルセンの東向いなのだが。
故オヤジが地図マニアで・・・結構楽しめた。
私も地図は好きだな。
さて,今回の学習で,川がどの様に埋められて,今の街になったかがよく判った。
珍しく為になるブログであった。
小学生の夏休み研究にどう?
もう一件のなぞ:広電は広島市に自己所有の土地を貸しているそうだ。路面電車が走っている路線のハズ。どこなんだろう。
またまたなぞ:広電の宮島線,草津から古江にかけて,一部古い木の柵が残っている。今時,枕木に錆びた有刺鉄線のまま。何十年もそのままなのだ。
地権者とトラブルでもあるのかねえ????
またの宿題ってことにしよう。