思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

「念力」と「意志」

2016-12-31 13:29:18 | 随想

 池谷雄二さんのツイッターにつぎのような面白い話が出ていた。

 「動け」と念じただけて物が動く、いわゆる「念力」を認めない人がいます。一方、「動かそう」と念じて自分の身体が動く、いわゆる「意志」を認める人は珍しくありません。「精神が物体に作用する」という意味ではどちらも同じ構図。物理学の大前提「エネルギー保存の法則」が成立していません。……「念力で物体が動く」のはエネルギー保存則に反します。……一方、身体の動きは紛れもなく脳の物理化学的な神経指令です。では、その神経を活性化させるものは何でしょう。……その原因として、もし「意志」という心の作用を持ち出せば、それは「精神が物質に影響を与える」ことを認めたことになります。「意志という見えざる力が神経の膜イオン電流を発生させる」というこの構図は、「念力が物質に作用する」という主張にほかなりません。(引用ここまで)

 「では、その神経を活性化させるものは何でしょう」という問いについて考えてみると、「意志」や「念力」、つまり「精神」を排除すれば、それは、体の各組織から脳神経に到達する物理化学的な刺激のほかにはない。脳神経に刺激を与える体の各組織は、外界から、あるいは他の体内組織から物理化学的な刺激を受けるわけで、そこに「精神」を持ち込む必要なない。

 生命体というものは、ある種の膜によって囲われた組織であり、その内部状態を維持するために、その外界の変化に対して反応し、行動をする存在であると考えることができる。外界は物理化学的に変化してゆく。その変化に対して生命体は反応する。また、生命体の反応も外界に変化を与える。つまり、外界も生命体も互いに影響を及ぼしあいながら変化を続けてゆくわけである。

 池谷さんの他の本(『脳はなにげに不公平』)にこんなことも書いてあった。

 1965年に、身体を動かすより前に補足運動野が活動を始めていることが発見されます。いわゆる「準備活動」です。その後1983年に、その準備活動が、行動を始める前のみならず、「始めよう」と感じる前に生じていることが報告されました。こうした事実からわかることは、「意志」は、すでに脳が行動を決定したことへの単なる「追認」であって、真の意味での「自由意志」ではないということです。(引用ここまで)

 「見える」「聞こえる」「におう」「まずい」「おいしい」「痛い」「ここちよい」「暑い」「寒い」「熱い」「冷たい」など、「感じる」ということも、脳内で起きている物理化学的な反応の結果として生じる精神作用であり、「感じる」ことは、生存にとって有利であり進化してきたのだと言える。「私がそうしようと思ったからそうしたのだ(私の意志による行動)」という感覚も、「感じる」ことと同様、それが生存にとって有利だから進化的に獲得したものだろう。生存は個体が単位であるから、外界の刺激を「感じた」のは他の個体ではなく「私」であり、その刺激に「反応した」のは「私」であるということが大切なのかもしれない。

 私たちは、普段の生活における大部分の動作を、その都度「意識的に」「そうしようと考えて」やっているわけではない。ほとんど「無意識に」やっているはずだ。つまり、外界からの何らかの刺激に対して反射的に反応している部分が圧倒的に多いと思われる。でも、そのような動作に対し、「いまなぜそうしたのか」と尋ねると「そうしようと思ったから」という答えが返ってくるはずだ。それでいいわけである。

 一方、時間のスケールを長くしてみると、「意志」の方が「行動」よりも先にある場合も多い。目標を設定し、ステップを踏んで行なう行動では、行動の前に目標を設定するという意志決定が先にあり、目標を実現するための行動は計画的に、順序立てて実行される。ここでの問題は、この一連の処理のトリガーである「目標を設定する意志」ということになる。一連の処理は、条件分岐も含めてコンピュータで行なわれている処理と同じであり、すべて物理化学的な方法で可能である。したがって、「目標を設定する意志」が生まれるというところに、物理化学的なものではない「見えざるもの」が必要かどうかということが問題となる。

 ここでも、それは必要がないと思う。まず、外界からの刺激があったとき、それに対して単純に反射的に行動するよりも、それぞれの人が生まれてからそのときまでに蓄積してきた膨大な情報を生かした方がより適応的な行動ができるわけで、人はその進化の過程で、それができる仕組みを獲得してきたと考えることができる。その仕組みによって、ある外界からの刺激は、まず、思考回路に導かれ、蓄積された情報を参照して考えるという処理を経て、選択的、計画的に行動をするということになるのであり、だから、トリガーとしての「目標を設定する意志」の生成に「見えざるもの」は必要ないと言える。

 しかし、人にとって、「どう感じるか」かは、間違いなく大切なことである。人は「こう感じたい」あるいは「感じたくない」という欲求(短期的、中期的、長期的)があり、その各種欲求を満足させるために生きているということも言える。そういうふうに進化してきたのだろう。「意志」や「意図」も同様に大切なものとして進化してきたはずである。しかし、それらを偏重し過ぎることは避けるべきではないだろうか。身体をコントロールしているのはそれらではなく、経験や知識などの情報が蓄積された物理化学的装置であり、「意志」や「意図」は、その装置が物理化学的な刺激に反応した結果として生じた感覚なのだから。より大切なことは、この世界についての経験や知識の方ではないだろうか。経験や知識は、この世界に対し、より適切な対応をとることを助けるからである。だからこそ経験や知識を生かせるような仕組みを進化させてきたはずである。

 「意志」「意図」「こころ」などについて、何冊かの本を読んだが、いまだにすっきりと理解することができない。「クオリア」についても同様である。だから、今回のブログも、思いついたことをそのまま書いたので、読んでもよくわからないかもしれない。



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