思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

シンギュラリティ

2018-08-13 22:56:17 | 随想

 「シンギュラリティ」、「2045年問題」ということばをよく聞くようになった。Singularityを辞書で調べると「特異点」と訳されている。数学的特異点、物理的特異点(他と同じようなルールを適用することができない点)など、いろいろな分野において使われる概念である。しかし、いま話題になっているシンギュラリティは技術的特異点(Technological Singularity)を指しており、特に指数関数的に進歩するAI技術の特異点を指している。その特異点は「人間の知的能力と人工知能の能力が逆転する点」を指し、それが2045年だと提唱しているのが人工知能の権威であるレイ・カーツワイル博士である。「2045年問題」とはそこからきている。

 

 AIはすでにいろいろな分野で実際に使われており、それぞれの分野で人間の知能を超えて働いている。チェスや将棋、囲碁をするAIなどはよく知られている。自動車の自動運転や医療診断などにおいてもAI技術が使われている。これらのAIはそれぞれ特定の目的を持っている。しかし、シンギュラリティで言われているAIはそのようなものではなく、汎用人工知能と呼ばれるものである。人の脳が汎用的であるのと同様に汎用的にものごとを考えることができる人工知能を指している。そんな人工知能が人の知能をはるかに超える時代が来るというのである。

 

 そのような時代の到来が、人間に何をもたらすのかということで、楽観論者から悲観論者まで、いろいろなことを言っている。しかし、素朴な疑問がある。

 

 現実の政治の世界を見てみよう。シンギュラリティの到来を待つまでもなく、いまの為政者よりはるかに知能の高い人たちが大勢いる。しかし、現実に、知能の低い政治家たちは、それらの優れた人たちに地位を譲ろうとはしない。「いまの政治は一番知能の高い人たちによって行なわれているのだ」と言う人はまずいないと思う。眼の前にある安倍政権と自民党の有り様を見てほしい。そんな中で、シンギュラリティが到来し、AIの知能が人間を超えたとして、この政治の何が変わるのだろう。

 

 人間であって、優れた知能を持っている人に対しては、地位を譲り、政治を任せることはしないが、相手がAIだとそれをするとでも言うのだろうか。AIが原子力発電所は廃止すべきだと言えば、それに従うのか? AIが富の分配を公平にすべきだと言えば、それに従うのか? AIが核兵器を廃絶すべきだと言えば、それに従うのか? AIが、人を殺傷する武器、兵器を金儲けの手段にすべきではないと言えば、それに従うのか? 答えは容易に想像できる。すべて「No」だろう。

 

 いま権力を持ち、自分たちの利益を最優先している人たちが、その利益を損なうようなことをするはずがないということである。多額の税金を投入し、どんな技術を優先して開発、発展させるかという政策を決定するにあたっても、その決定権を持っているのは、眉をひそめたくなるようなあの政治家たちである。そんな彼らが、自分たちの利益を損なうような決定をするはずもない。AI技術を推進するにしても、その目指す方向は、彼らの頭(知的レベル)で考えられ、決定される。国のレベルで行なう研究、開発の決定権は彼らが持っている。

 

 つまり、シンギュラリティの到来を漫然と待っていてもバラ色の世界が訪れるわけではないということである。反対に、彼らはAI技術によって、支配のためのより強力な武器(道具)を手に入れることになるだろう。この世界は、残念ながら、いまだに理性的な人たちによってコントロールされているわけではない。アメリカが世界で一番大きな影響力を持っているのは、世界で一番理性的な国だからではなく、世界で一番大きな武力を持っているからである。AI技術は、そんな世界の中で生まれ、進歩しているのである。そんな世界の中で生まれ、進歩した核エネルギーに関する技術がこの世界に何をもたらしたのかを思い起こす必要がある。

 

 もう一つの疑問もある。2016年5月9日のブログ「もう一度、ロボットについて」で、ロボットの心について述べたことであるが、人の行動を決めている心と、AIが持つことになる心との違いである。

 

 シンギュラリティのお話では、当然、AIは自律的な存在となる。そうすると、AIも自身を律するための心のようなものが必要になる。人に心と呼ばれるものが生じたのは、上記のブログで述べたように、個体が自律的に生きてゆく、つまり、この世界から生存に必要なエネルギーを得るために、この世界にはたらきかける能力、危機回避能力、自己修復能力、自己複製能力を獲得したところから始まり、それらの能力を、連携、統合し、よりうまく機能できるように脳が発達したところにあると考えられる。人が心地よいと感じるもの、求めるものは、人の生存にとって役に立つものである。人が恐れ、嫌悪を感じ、逃れようとするものは、人の生存を危うくするものである。最も基本的な人の行動原理はそこにある。

 

 一方、AIについて言えば、それが機能してゆくために必要なエネルギーは人とはまったく異なる。したがって、その獲得手段も異なる。この世界にはたらきかける能力、危機回避能力、自己修復能力、自己複製能力についても、人とは物質的、構造的に異なるので、その内容も人とは異なる。そして、AI自身にとって役立つもの、害になるものも人とは異なる。つまり、AI自身の行動原理は人とは根本的に異なるわけである。とすれば、シンギュラリティは人の幸福とは関係のない別のできごとであると言えるのではないか。AI技術を人の幸福に結びつけることは、別の問題として考える必要があるということだ。

 

 AI技術の研究、開発を推進する力(人と資金)を、自己の権力と利益を最大化することを目的とする勢力が握っているとすれば、「最大多数の人の幸福」がAI技術の研究、開発目標の最上位に置かれることはないだろう。容易に想像できるのは、人の監視、管理の技術がいっそう進歩するだろうということである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿