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この世界には生存競争というものがある。その競争の中では、そのときどきの環境に対して偶然に有利な条件を持っているものは、その有利さを活かしてますます有利になり勝ち残ってゆく。進化論の原理はここにある。考えてみれば、当たり前のことでもある。不利な条件を持ったものが有利な条件を持ったものに勝てるわけがないからだ。そんなことがあるとすれば、それは、この世界の外部から何らかの力が働いた場合だけである。この世界を部分世界に分け、その部分世界で考えると、各部分世界にはその外部世界があるので、不利な条件にあるものが、有利な条件にあるものを負かすという例はいくらでも考えられるかもしれない。しかし、そのような部分世界は、それぞれ他の部分世界に対して互いに外部世界として影響を与えつつ変化してゆくが、その全体としては、やはり基本的な原理からは逃れられないと思われる。かつて、国という部分世界の単位で一定の範囲で独立して営まれていた経済は、いまやグローバル経済と言われるかたちのものに変質し、その中で基本原理が働いているのはその一例である。
人類の文明にその原理を当てはめて考えたのはジャレド・ダイアモンドである。たまたま農業に適した植物(驚くほど少ないことが説明されている)が自生し、気候、水利などに恵まれ、その植物を継続的に栽培することが可能な土地があり、家畜化が可能な動物(これも驚くほど少ないことがわかる)が周辺に生息しているような地域に生まれ、暮らしていた人々が、農業技術を獲得し、食料生産を飛躍的に拡大するのは、人間一般が持っている能力から見て当然のことであり、その地域の人間が、他の地域の人間に比べて特別な能力を持っていたからではないということだ。いまこの世界を支配している経済的システム、そこから生み出される価値観、社会関係などは西欧文明の延長線上にある。しかし、それは西欧人が他の地域の人間よりすぐれていた結果ではないということになる。従来、このシステムとは無縁で暮らしてきた人々が、このシステムに組み入れられるとすぐに順応し、西欧人にとって強力な競争相手になることを見てもそれはわかる。
いま、この世界は資本主義経済という、上記の原理の中で発展してきたシステムの中で動いている。資本主義経済の中での競争とは最終的に商品の販売競争である。この経済システムの中ではあらゆる富が商品、すなわち売るためのものとして生産され、提供される。売ると言っても、作れば売れるということではない。そこには多数の売り手があり、競争がある。商品を生産しても、それが売れなければ生産したことの意味がなくなってしまう。売ることで、投資した金額より多くの金額を回収する必要がある。商品を無償で提供したり、単にストックしておいたり、捨ててしまったりしてはならない。売るということが必須のものとなっている。より安く、より魅力的な商品を提供できるものがその競争に勝つ。当然、あらかじめ有利であったものはより有利になり、負けるリスクは小さくなる。不利なものはその逆である。
「あらかじめ有利であったもの」と言ったが、この競争の参加者は同じ条件で競争を開始するわけでは決してない。この経済システムの先進国の歴史を見ればわかるが、比較的最近この競技に参加したロシアや中国を見てもよくわかるのではないかと思う。共に、あらかじめ権力、権限を持ち、重要なコネクションを持っていた人々が、その有利な条件を活かして大儲けをしている。人間を個人レベルで見ても、生まれながらにして、偶然にいま眼の前にある世界の環境に適した能力を持っているものがいて、そうでないものがいて、経済的中心地に近い地域にある裕福な家庭に生まれ、この世界で成功するための十分な教育、訓練を受けながら育つものもいれば、そうでないものもいる。この競争の中で、前者が後者に勝つのは当然のことである。
「だれでも努力することはできる。問題は努力するかしないかであり、努力すれば結果はついてくる。成功した人とはすなわち努力した人だ」と言う人がいる。成功している人にはうれしい言葉である。しかし、この競争に対し、人は不平等な条件を与えられて生まれてくることは否定できない。同じ努力をしても、一方は成功し、他方は敗者となる。また、苅谷剛彦さんの『学力と階層』という本を読むと、子どもの学習意欲そのものが、どのような社会的階層に生まれたかによって違っていることがわかる。上位階層に生まれた子どもは下位階層に生まれた子どもより学習意欲が高い。それは学力の差につながり、より高いレベルの教育を受ける機会の有無につながり、就職先につながり、その後の社会的生活のレベルを大きく左右することになる。この本の解説の中で、内田樹さんがつぎのように述べている。
努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会達成の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。
このように見てくると、世の中はそういうものだから、あれこれ不満を言ったり、あがいたりしても仕方がないという、あきらめの気持ちを持ってしまう。それを「悟り」と言う人もいるかもしれない。しかし、人間はあるものの仕組み、原理がわかれば、それを操作することが可能になり、放っておけば向かう方向を、別の方向変えられるようになる。資本主義経済システムは、工業化によって人間の労働を高度に集約化し、効率化して大きく発展した。その結果、人間が道具化され、労働者の生活は悲惨極まりないものとなっていった。どんな状態になっていったのかは、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』やマルクスの『資本論――第2巻』などを読むとよくわかる。その中から、社会主義や共産主義の運動が生まれ、いわゆる資本家を脅かし始めた。そして、ロシアでの革命に危機感を持った資本家たちは、一方で暴力的に労働運動を抑えながら、他方で、長時間労働を規制したり、少年少女を働かせることを禁止したり、危険な労働に対する安全対策を強制したり、さまざまな法律を作って、むき出しの競争原理による経済、成り行きに任せるかたちの経済をコントロールし、社会という、自分たちが活動する舞台で大きな混乱が起きないようにする必要があることを学んだ。
また、競争を成り行きに任せれば強い企業だけが生き残ることになり、競争というものがなくなることによって、その独占企業の力が大きくなり過ぎ、社会が変質してしまうことを防ぐ必要もある。ほかにも、この競争の中で当然に発生する景気の波が過度に大きくなり、不況のときに大量の人々が失業し、生活できなくなることを防ぐ必要もある。そのために、政府が経済活動に対して積極的に介入を行なうようにもなった。ケインズ以降の近代経済学は、資本主義経済というシステムを、大きな破綻なく回転させるための方法を研究する学問であるとも言える。金融工学など、金を操って一部の人間だけが大儲けをするテクニックを編み出す学問(?)とは目的が異なる。
経験に学んだ政府は、いろいろなかたちで経済活動に介入し、一定のコントロールをしてきた。しかし、ここに至って、強欲な資本家たちが、経済活動に対する社会的な規制の歴史やその本質を忘れ、自分たちの活動に対する規制を嫌って、それを撤廃するよう政府に圧力をかけている。アメリカのネオコン(Neoconservative = 新保守主義)の活動はそれを代表している。彼らは、自分たちの活動に対しては口出しをしない、自分たちから多額の税金を取らない「小さな政府」であることを求めている。(自分たちの活動を阻害するものに対しては、たとえそれが外国であっても、わざわざ出かけて行って武力で潰してしまうような「大きな政府」、リーマンショックのような大きな危機があったときは、多額の税金を投入して自分たちを救ってくれる「大きな政府」であることを求めているのだが)ブッシュは彼らの主張に従って政策を実行してきた。オバマも、彼らの寄付金で大統領になったわけで、その呪縛から逃れることはできず、ブッシュの政策をほぼ継承している。その中で、アメリカの社会の階層化はどんどんと進んでいる。いまのアメリカがどんな状態になっているかは、堤未果さんの『貧困大国アメリカ』(岩波新書による3部作)を読めばよくわかる。本当にひどい社会になっている。日本政府は、ほとんど独立国家としての自主性などないかのごとく、そのアメリカに追随する政策を採っている。「きょうのアメリカは明日の日本」ということばがあるが、このまま進めば日本の社会も階層化が進み、多くの人々が悲惨な状態に置かれるようになるだろう。
資本主義社会における政府は、けっして公平ではない競争環境の中で、成り行きに任せれば有利なものが勝ち、負けたものは悲惨な状態に置かれ、社会不安が増大し、混乱し、資本主義経済システムそのものが正常に働かなくなり、社会が崩壊してしまうことになるのを防ぐためにあると言える。競争の中に各種のルールを設け、競技者に対して強制し、争いを調停する役割を果たすわけである。その政府を機能させるためには当然お金が必要であるが、税金はそのためのお金である。この社会を利用して大儲けをした人たちは、税金として相応の額を社会に還元すべきなのは当然のことである。また、そうしなければ、彼らが大儲けをする舞台である社会を維持することができないのだ。ところが、大儲けをしている企業は、本社を税率が極端に低い国(タックスヘイブン)に移し、税金逃れをしている。その結果として、国が崩壊したところで、彼らはその国を捨てればよいだけであり、あとは野となれ山となれである。実際に、「法人税を引き上げたりして、これ以上企業から金を取ろうとするならこの国を出てゆくぞ」と脅している。その脅しに負けてか、安倍首相はその所信表明演説で「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」と宣言している。モラルは地に落ちている。モラルなど気にしていたら大儲けなどできないからだろう。ノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のクルーグマン教授がNYタイムズに書いているコラムを朝日新聞が訳して連載している。それによれば、リーマン・ショックと言われる世界経済危機を引き起こした元凶であるAIGは、倒産すると影響が大きすぎるとして、アメリカ政府によって多額の税金が投入され救われたが、その間にも幹部は多額の賞与を受け取っていたとのこと。このことが国民に知れ、怒りを買うと、幹部は、そのようなバッシングを黒人のリンチ殺人事件になぞらえ、それは「同じくらい邪悪で、同じくらい間違っている」と反論している。このような発言は特別なものではなく「悪役ヒーローたちは常に口にし、互いに共鳴しているのだ。ただそれを、大衆の耳に入るかもしれない所で言ってはいけないということを時々、忘れてしまうのだ」とのこと。
経済活動への各種規制を取り払い、そのことで金持ちがもっともっと金持ちになれば、下位の階層に属する人に対してそのおこぼれが滴り落ちてくるというトリクルダウン理論は、この世界の現実がその間違いを実証している。それが正しいのなら、とてつもない金持ちが何人もいるアメリカは、そのおこぼれで、大多数の人たちは、相対的に世界で最も恵まれた生活をしているはずである。しかし、現実は、堤未果さんのルポを読めばわかるように、かつて羨望の的であったアメリカの中産階層の生活は崩壊に向かい、1%の富裕層に対する99%の貧困層に落ち込み、その生活は悲惨なものとなっている。そして、貧富の格差はますます大きくなっている。
人間の活動というものをある側面から見れば、成り行きに任せれば人間にとって悪い方向に向かってしまう場合に、そこに介入して、人間にとって 良い方向に向かわせることだと言えるではないか。もちろん、一般論として何が悪く何が良いのかは難しい問題ではある。しかし、たとえ難しくてもその判断なしに活動することはできない。一部の人間だけが途方もない贅沢な暮らしをし、大勢の人間が貧困状態にあるような階層社会が良い社会ではないと判断することに、ほとんどの人は同意できるのではないだろうか。一般論ではなく、具体的に考えてゆけば判断はそれほど難しくないはずだ。自然に任せる、成り行きに任せるということそのものが善だとか悪だとかは言えない。具体的な問題の中で考えてゆく必要がある。そして、成り行きに任せることが悪であるとわかった場合は、その方向を変えるべく人間は活動をすべきである。
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