思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

もう一度、ロボットについて

2016-05-09 13:20:38 | 随想
 前回のブログで、ロボットが人の労働を奪った場合の話をした。それは、現在の資本主義経済システムの中で進行するものではあっても、資本主義経済システムとは相容れないものだという話でもあった。いずれ、ロボットによって人の労働が不要になるかもしれないが、問題はそうなる過程にある。長い時間をかけ、社会の仕組みも、その時間の中で徐々に変化し、そのような最終状態を受け入れることができるようになるのであれば、それほど大きな問題にはならないかもしれないが、そうでない場合は、多くの人の生活手段がなくなるわけであり、社会内に大きな混乱が起きると思われる。

 そんな心配はないという人たちは多い。理由は、人でしかできない仕事がかならずある、新しいかたちの働き方が生まれる、歴史的に見ればそうなるというものである。産業革命期に、機械の導入によって職を失った労働者が機械を打ち壊すという運動(ラッダイト)が起こったが、それは克服され、その後はさらに経済的に発展しているではないかとのこと。そのときの機械は、人の肉体的労働に置き換わるものとして出てきたものであり、置き換え不可能な労働はその時点でも、事務系の労働など、いろいろなものが目に見えるかたちで存在した。しかし、肉体的労働が機械によって置き換わり、続いて頭脳労働がAI技術によって置き換わるとすれば、つぎにどういう種類の労働があるかを概念的であっても提示できないかぎり、先の楽観論は「そうなってほしい」という希望的観測、あるいは、「そうなるはず」という一つの信念に過ぎず、何の保証もない。したがって、労働の対価として生活手段を得ている人たちの心配はなくならない。

 資本主義経済システムにおいては、とにかく労働コストを下げることが儲けにつながる。国内では賃金を抑えるために努力をし、海外に格段に安い賃金で生産できる場が見つかれば、生産拠点をその海外に移し、機械化、ロボット化ができるところはその導入を図る。そうすることによって、企業は競争に勝ち、生き残ることができる。しかし、労働者の賃金は上がらない。上げてしまっては、機械化、ロボット化をした意味(労働コストの低減)がなくなる。また、機械化、ロボット化ができない企業は退場し、失業者を生み出す。こうして、商品の買い手である人たちの購買力を下げ、つまり、経済を不活性化し、不況を招く。生き延びるためには自分で自分の首を締めざるを得ない。これが、このシステムが内包している根本的な矛盾である。

 話は変わるが、ここで、少しロボットの心というものについて考えてみたい。人と同じような心を持つ、鉄腕アトムのようなロボットは実現可能だろうか。日本人の中高年(中年は違うかもしれない)の多くが、最初にロボットということばに出会い、それがどんなものであるかを知ったのは、たぶん鉄腕アトムだと思う。だから、ロボットと言えば、アトムのようなものを想像しがちであり、将来は、人とよく似た心を持ったアトムのようなロボットが実現されると考えがちである。

 心は、脳のはたらきとして一般に認識されている。確かに、脳は人にとって最も重要な器官の一つであり、意識、感情、考えることなど、心と呼ばれるものに深く関与している。しかし、脳は体外の情報を受け取る各種の感覚器官、および体内の各臓器から発信される信号と結びついて機能しているものであり、脳だけを取り出しても人間的なはたらきはしない。SF小説で、傑出した人の脳だけを取り出し、その判断を仰いで社会をコントロールするような話があるが、およそ非現実的だと思う。脳は人の身体の性質や構造と密接に結び付いて機能するものである。脳だけが他の臓器とは独立し、外部から何の信号の入力もなく機能するものではない。

 このような「人」に対し、ロボットは、人の脳に相当するコンピュータと、感覚器官に相当する各種センサー、手足や発声器官などに相当する各種出力装置とが一体になって機能するものである。また、ロボットの情報処理の方法と、人の情報処理の方法とは異なる。たぶん、その情報処理の方法は、人と昆虫との違いよりも大きいと思う。だから、もし、自律的なロボットができ、心と呼べるものを持てたとしても、その内容はまったく違うものになるだろう。昆虫にも心があるとして(最近の研究によると、意識の鍵となる主観的経験を担う脳回路基盤が昆虫にもあることがわかっているそうだ)、その心が人と同じようなものだとは考えられないのと同じである。たぶん、ロボットより、DNA型の生物である昆虫の方が人に近いだろう。

 感覚器官=センサーを考えてみてもわかるのではないか。たとえば、人以外の動物の中には、その視覚でとらえることができる光の波長や周波数、エネルギーなどの範囲が大きく異なるものがある。また、聴覚についても同じことが言える。嗅覚も、味覚も、触覚もそう言える。渡り鳥などは地磁気を感じとることができ、それを頼りに大海を越えて間違いなく目的地にたどり着くことができると言われている。ロボットについて言えば、そのセンサーは人にとって有害な環境に耐え、測定することも可能である。ほかにも、生存にあたって必要な条件も違う。ようするに、人以外の動物、あるいはロボットが見ている世界、感じ取っている世界は人とは違うのである。これら諸々のことが、心の内容に影響を与えないはずがない。だから、人と同じように感じ、考えるロボットは不可能だと思う。人がプログラムをすることによって、癒し系のロボット、サービス系のロボット、介護ロボットなどについて、そう見えるようにはできるかもしれないが、それはここで問題にしている自律的なロボットの心とは言えない。

 「そう見えるならそれで十分だ。人だって同じで、相手が自分と同じように人の心を持っているということは確かめようがない。それは一つの信念であって、真実かどうかを確かめることはできない。そうであれば、見えることを信じるしかないのだ」と言う人がいるかもしれない。たしかにそうかもしれない。しかし、上に述べたように、人とロボットはその構成物質や構造がまったく異なり、センサーの性質もまったく異なり、入力した情報の処理方法もまったく異なる。だから、たとえ外見はそう見えても、その内部に生じている心や意識が同じものになるはずがない。もし、ロボットが自律的に目的を持つようになるとしても、その目的は人とは異質なものになるだろうし、人にとって有益なものであるとは限らない。有益どころか害になることも考えられる。SFではないが、ロボットと共存できるかどうかが問題になるかもしれない。

 ……と、ここまで書いてきて気付いたのだが、この違い、人とロボットが本質的に異なるものであるというところに、現状の経済システムが、まだ人を必要とするものがあるかもしれない。具体的にはよくわからないけれど。

* 「見えることを信じるしかない」という考え方について、少し述べたい。「人が感じ取れるもの以外は存在しない。感じ取れるものがすべてだ」と極言する人がいる。しかし、こういうことが言える。たとえば、人は顕微鏡を作り、あるいは望遠鏡を作り、いままで見えない世界を見えるようにしてきた。見えないものは存在しないのであれば、原子も素粒子も、月の裏側も、ブラックホールも存在しなかったのではないか。そのときは見えなくても、「こういうものがあるはずだ」という信念が観測技術を発達させ、見えなかったものを見えるようにしてきたのである。そして、新しい発見はいつも、「いま人が見ている世界は、この世界のごく一部でしかない」ということ、「いま見えていることがすべてではない」ということを人々に教えている。

* もう一つ、心というものが生じる条件について。それは、個体が自律的に生きてゆく、つまり、この世界から生存に必要なエネルギーを得るために、この世界にはたらきかける能力、危機回避能力、自己修復能力、自己複製能力を獲得したところから始まるのではないだろうか。脳は、それらの能力を、連携、統合し、よりうまく機能できるように発達してきたのではないだろうか。心についても同じで、それらの能力をよりよく機能させるために生まれたのではないかと思う。
 したがって、人以外の生物についても、人と同じ条件下で生きているとすれば、それぞれに、それなりの心というものがあるのではないか。そして、ロボットについても、自律的に、上記のような能力を持つことになれば、心というものが生じる可能性はあると思う。


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