思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

原子力発電について

2012-02-13 00:06:28 | 随想

 まず、ホットな問題として、原子力発電について。

 先日の新聞によれば、JR東海の葛西会長が、迅速に原子力発電の再稼働をすべきだとして、つぎのような主張をしているとのこと。

 「今日の原発は50年に亘る関係者の営々たる努力と数十兆円に上る設備投資の結晶であり、それを簡単に代替できる筈がない」「政府は稼働できる原発をすべて稼働させて電力の安定供給を堅持する方針を宣言し、政府の責任で速やかに稼働させるべきだ。今やこの一点に国の存亡がかかっていると言っても過言ではない」「原子力を利用する以上、リスクを承知のうえで、それを克服・制御する国民的な覚悟が必要である」

 リニア新幹線で大量の電力が必要なJR東海としては、当然の主張かもしれない。また、原子力を利用する以上、リスクは不可避で、国民は覚悟が必要という点も間違いではない。しかし、そういう覚悟が必要なのは、今後も「原子力を利用する以上」であって、いまこの時点で、利用することについての国民的合意はまだ得られていないと思うのだが、これからも今回の事故で明らかになったような大きな「リスクを承知のうえで」覚悟して原子力を利用しなければ「国の存亡」が危うくなるのだろうか。

 たとえば、自動車産業というものがある。2010年度、交通事故で亡くなった人は4,863人だとのこと。最悪の1970年の16,765人に比べれば、その30%にまで減少してきたわけだが、それでも毎年多くの人が亡くなっている。戦後の累計では約60万人にもなる。東京大空襲で10万人、沖縄戦で12万人、広島、長崎の原爆で21万人が亡くなっているが、それをはるかに超える人数になる。だからと言って、自動車をなくせとは誰も言わない。なぜかと言えば、自動車産業はいまや世界の経済の中核となっており、鉄鋼、石油、電気等エネルキー、物流などと密接に関連し、膨大な数の人々の職と生活がかかり、また、自動車そのものの利便性を誰もが認め、利用しているからである。自動車の存在によって継続的に多くの人が亡くなるという大きなリスクがあっても、人々はその存在を肯定していると判断することができる。国民(日本国民だけではない)はリスクを承知で自動車を利用している。原子力発電についてはどうだろう。自動車と同様、多少(?)の犠牲を強いても存続させる必要があるのだろうか。

 では、原子力発電のリスクとはどんなものだろうか。今回の東日本大震災によって、福島第一原子力発電所は大量の放射性物質を大気中、海水中に放出し、広大な地域を人が住めない状態にしてしまった。つまり、いままで活用されていた国土の一部を失ってしまったことと同じことになる。経済的な損失は竹島の領有権を失う比ではない。事故直後の3月末、原子力委員会が想定した「最悪のシナリオ」では半径170kmあるいは250kmが避難区域になるとのこと。今回の事故について、その可能性があったということではないが、将来の事故で、最悪の条件が重なればそうなる可能性があるという意味らしい。つまり、最悪の場合、約3000万人が住む首都圏が避難区域に含まれる可能性があるということだ。JR東海の葛西会長はこのことを知って言っているのだろうか。そんなことになったら、それこそ「国の存亡」が危うくなるのではないか。ちなみに、「最悪のシナリオ」というのは、「水素爆発が起こる」「サイト内放射線量が急激に増大する」「作業員が退避を余儀なくされる」「原子炉と燃料プールの注水と冷却が不可能になる」「原子炉と燃料プールの核燃料の溶融崩壊が起こる」といった事象が連鎖的に生起した場合のことだ。それほど非現実的なことではないと思われる。たとえば、福島第1原発事故を受け、内閣官房参与として2011月3月29日から9月2日まで、官邸において事故対策に取り組んだ田坂広志教授(東京大学大学院原子力工学科修了)は、今回の事故は幸運が重なった結果、最悪の事態にならずに済んだという見解を述べている。

 今回の事故では、たとえ避難区域に指定されなかった地域であっても、場所によってその量は異なるが、一般の住民が、従来自然に浴びていた放射線量よりも多くの放射線を浴びることになってしまった。放射線の影響は、大量に浴びたのでなければ、相当の時間が経過しないとわからないが、広島、長崎、第五福竜丸事件、東海村での臨界事故などの経験は、放射線が人間にとってけっして安全なものではないことを教えてくれている。放射線は遺伝子を破壊し、細胞分裂に異常を引き起こす。たとえ微量であっても、そのようなものが人間にとって問題がないはずはない。年間○○ミリシーベルト以内であれば安全であるなどとはけっして言えないはずである。「従来自然に浴びていた放射線量」というものも、やむを得ず浴びているに過ぎず、浴びないに越したことはないはずである。

 また、原子力発電所の事故は、自動車事故に比べると、1回の事故で損害を受ける人々が桁外れに多いことがわかる。事故の影響の持続時間の長さも比較にはならないほど大きなものである。福島原発の事故は、一年近く経った現在でも、その被害の全体像は明らかになっておらず、事故の収拾は遠い先のことになると思われる。原子力委員会からは、事故が起きた原子炉の廃炉処理が完了するのは30年以上先になるという報告書も提出されている。廃炉処理が完了したところで、元のように周辺住民が生活できるようになるわけではない。原爆を落とされた広島が復活できたのは、爆発したウランがわずか800グラムであったからで、100万キロワットクラスで年間100トンのウランを使用する原子力発電所の事故では、チェルノブイリ事故にも見るように、たぶん100年経ってもその周辺に住むことはできないのではないか。

 この他、放射性廃棄物は、いまだに安全な処理方法が確立していないため、貯まる一方であり、貯蔵が困難になって、いろいろな社会問題も引き起こす。福島の事故で、除染と称してかき集めた放射性物質もそれをどこに置くかという問題を起こしている。貯蔵そのものに関する費用も馬鹿にならない。使用済み核燃料の再処理費用、放射性廃棄物の最終処分費用は、原子力発電装置1基あたり、40年間で総額約19兆円との試算がある。(2012.2.4朝日新聞)

 一方、原子力発電による利益とは何か。その直接の関係者が多大の利益を得てきたのはわかる。しかし、その人たちのために原子力発電を継続、拡大するわけにはゆかないことは明白である。国民一般にとっての利益を考える必要がある。

 通常よく言われるのは、CO2を出さないクリーン(?)なエネルギーを安価に得られるというものだろう。しかし、CO2ではなく多量の放射性廃棄物を出すのにクリーンと言えるのだろうか。放射性廃棄物の処理方法はいまだに確立されていない。あまり話題にはされないが、核燃料の再処理工場(青森県六ケ所村にある)からは、実は膨大な量の放射性物質が大気中、海水中に放出される。国に提出されている再処理事業指定申請書には、放射性廃棄物の環境への推定年間放出量が記載されており、それによれば、大気中に放出されるクリプトン85という放射性物質は年間33京ベクレルとなっている。京は兆の1万倍(1億の1億倍)である。半減期が10.7年と、比較的短いが、継続的に放出されるのだから、原爆のように投下された後、放射能が徐々に減ってゆくということはない。それどころか、核燃料の濃縮、再処理が続く限りどんどん増えてゆく一方である。現在の地球の大気中にあるクリプトン85は、核実験が開始されるより以前に比べると1000倍以上になっているそうである。アメリカ、イギリス、フランスなどの核燃料再処理工場から放出され続けてきたことが主な原因である。また、海中に放出されるヨウ素129は年間430億ベクレルとなっている。半減期は1,570万年だ。この物質は魚介類などに蓄積、濃縮されるので、それを食べれば内部被曝をすることになる。こう見てくると、クリーンなエネルギーという言い方は通用しないように思われる。人類はまだ放射性物質を安全に処理する技術を手に入れていない。それにもかかわらず、原子力発電によって、地球上の人工的放射性物質をどんどん増やしているのが現状である。

 つぎに、安価なエネルギーという点である。原子力委員会から、今回の事故の損害額を加味した原発のコストが発表されたが、その中で損害額は約3兆9千億円と見積もられている。ただし、森林を含めた広範囲に及ぶ除染費用や廃棄物の保管費用などは、正確な金額がまだ分からないとして含まれていない。明細はよくわからないが、住む場所を奪われ、不便な生活を余儀なくされている人々の精神的な損害は含まれているのだろうか。スリーマイル島、チェルノブイリ、今回の事故でも明らかになっているように、原子力発電所の放射能漏れ事故によって、その国土の少なからぬ部分が長期間にわたって利用不能になる。そのことによる損害は考慮されているのだろうか。つまり、その期間、その地域が事故前と同様に居住でき、使用することができた場合に得られる利益というものも無視することはできない。交通事故の損害賠償でも、被害者が元気だったとして働いて得られる収入が考慮される。したがって、3兆9千億円という数字はかなり過小評価されているように思われる。

 また、損害額を算出するにあたり、事故の確率を従来の10万年に1回から500年に1回と変更しているようだが、この数字の根拠がよくわからない。世界初の原子力発電所が稼動してから60年くらいしか経っていない。その間に、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と3回も深刻な事故が起きている。どうして500年に1回なのだろうか。現在、世界には約400基の原子炉があり、それが60年に3回の事故を起こすとすれば、20年に1回、世界のどこかで事故が起きていることになる。日本に50基とすれば、400基の1/8なので日本で事故が起きる確率は160年に1回ではないだろうか。60年前から400基や50基があったわけではないので、計算はこんなに単純ではないとは思うが、以前はもっと原子炉の数が少なかったわけで、そうすると少ない中での事故となるので、確率はもっと大きくなりはすれ、小さくはならないと思う。

 さらに、この確率について注意が必要だと思われるのは、日本が地震国であり、現在、原子力発電所がある場所すべてについて、大きな揺れ、あるいは津波の被害に遭う可能性が十分にあるということだ。すなわち、先の確率が世界規模での事故の確率だとすれば、地震国である日本では地震が少ない世界の他の地域に比べて、事故の確率は圧倒的に大きいといいうことになる。

 500年に1回という先の確率がこの日本で発生する確率だとするとき、事故の原因をどう想定しているのかも問題になる。今回のような規模の地震だけを想定しているとすれば、500年に1回というのもある程度はうなずける。しかし、事故の原因は地震に限らない。スリーマイル島事故もチェルノブイリ事故も地震や津波は関係がなかった。人による操作ミスが原因であった。今回の福島の事故でさえ、初期の判断ミスの疑いも出てきている。すべての電源がストップしても一定時間冷却を続けることができる復水器を、操作員が故意に止めてしまったことや、冷却のための海水注入の判断を経営トップが迅速にしなかった(海水を注入すると廃炉にせざるを得ず、それを惜しんだ)ことが炉心溶融につながったというものだ。地震以外の原因、人による操作ミス、テロ攻撃、大型航空機の墜落、戦時のミサイル攻撃など、いろいろな原因で冷却システムが破壊されたり、原子炉が爆破されたりすることが考えられるわけだから、地震だけを想定して500年に1回という計算は適切ではない。先に述べたように、人による操作ミスであるスリーマイル島事故とチェルノブイリ事故はこの60年間に起きているのだから30年に1回である。日本では操作ミスは起きないということはできない。

 いずれにしても、損害額が3兆9千億円(最近の試算では5兆6910億円)だとか、事故の確率が500年に1回だとかいう数字は、今回の規模の事故があってもなお原子力発電のコストは他の発電方式に比べて低いのだということを言いたいがための数値のような気がする。したがって、原子力は安価なエネルギーであるという主張もかなり怪しいものである。

 コストとして付け加えるべきものがさらにある。それは、電源三法交付金として立地地域に国から支払われるお金である。原子炉1基につき、運転開始までの10年間で約480億円、その後の40年間で約900億円が支払われる。これは電力会社ではなく、国民の税金から支払われる。また、同じく税金(電源開発促進税として電気料金に含まれる)から支払われる使用済み核燃料の再処理費用、放射性廃棄物の最終処分の費用もある。それは、先に述べたように推計で総額約19兆円である。それでも原子力発電は他の発電方式に比べてコストは低いのだろうか。

 もう一つ、従来型の発電所は石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料を使用しており、枯渇のリスクがあり、また、輸入が必要でその価格は世界情勢に左右されて不安定であるが、原子力発電の場合、それがないとするものである。本当にそうなのかはいまの私にはよくわからないが、天然ウランの埋蔵量は極少ないという主張がある。また、日本の現状では、原子力発電用のウラン燃料は100%輸入に頼っているという現実がある。使用済み核燃料は再利用できると言われているが、その再利用について、最近、馬淵元国土交通大臣は、原子力発電所から出る使用済み核燃料の処理方法について、政府に対する提言をまとめ、この中で、国が推進してきた使用済み核燃料を再利用する「核燃料サイクル政策」について、中核となる高速増殖炉「もんじゅ」の研究開発が計画どおり進んでおらず、実質的に破綻していると述べている。したがって、今後も安定して、いつでも必要なだけ手に入るものではないことは明らかである。

 ところで、これらとはまったく違った観点から一種の利益を主張する人たちがいる。読売新聞の昨年9月7日付け社説がそれで、「潜在的な核抑止力」である。イランや北朝鮮が原子力発電のためとしてウランの濃縮をしていることに対し、それは核兵器につながるとして多くの国が反対しているのだから、日本が原子力発電によって、核兵器の原料になる大量のプルトニウムを作り出していることは「潜在的な核抑止力」になりうるという主張は論理的に間違ってはいない。しかし、非核三原則を標榜し、平和憲法を持つ日本では、これが事実としてもけっして公言できない主張であり、ましてや1,000万部に近い発行部数を誇る読売新聞としては言ってはならないことではなかったかと思われる。でも正直に言ってしまった。公然の秘密だったけれど、もう秘密ではなくなった。であれば、これを利益とする考え方も一考の余地がある。もちろん、核抑止力そのものを否定する考え方もある。

 このように見てくると、日本では、たぶん世界のどこでも、「原子力発電は、自動車と同じようにそれなしでは世界経済は成立せず、たとえ犠牲者が出ても、それを廃止することはできないものである」というような暗黙の了解はできていないと考えられる。とすれば、特に今回のような国民全体を巻き込む大事故が起きたのだから、冒頭に述べたJR東海の葛西会長の「原子力を利用する以上、リスクを承知のうえで、それを克服・制御する国民的な覚悟が必要である」ということばに対し、国民が本当にその覚悟をするつもりがあるのか、国民投票などの方法で、意見を聞く必要があるのではないか。

 ちなみに、カタログハウスが「原発国民投票」を呼びかけた「通販生活2011年秋冬号」のCMをテレビ局が放映を拒否したそうである。そのCMの内容というのは、俳優の大滝秀治さんが、黒い背景の上に流れるつぎの文字を読むだけのものだ。時間は30秒。

原発、
いつ、やめるのかそれとも、
いつ、再開するのか。
それを決めるのは、
電力会社でも
役所でも
政治家でもなくて、
私たち
国民一人一人。
通販生活 秋冬号の巻頭特集は、
『原発国民投票』
全国書店で発売中


 これを、「日本民間放送連盟の『報道番組のCMは番組内容と混同されないようにする』という放送基準に抵触するおそれがある」として放映を拒否したとのことだ。いったいこの30秒のCMのどこが番組内容と混同するおそれがあるのだろうか。インターネットで実際に見てみたけれどそんなおそれがあるとはまったく感じなかった。同じテレビ局が「原子力発電は安全です」というCMをあれほど繰り返し流してきたのに、あきれてものが言えない。もちろん、本当の理由は別のところにあることは誰でもわかる。大株主が九州電力である西日本新聞社が、佐賀県知事と玄海原子力発電所の癒着問題を批判的に報道できなかったのと同様、テレビ局の顧客であり、大株主でもある人たちが数多く含まれている原子力発電推進派の機嫌を損ねるようなことはできなかったというだけのことに過ぎない。つまり、「番組内容と混同されるのを恐れている」のではなく、大事故が現在進行中であるいま国民投票などをすれば、ドイツのように、脱原子力発電の方向に政策転換すべきだという意見が多くなり、彼らの利益を損ねることになってしまうのを恐れているのがはっきり見える。

 冒頭、JR東海の会長も言っているように、国はいままでに原子力発電のために数十兆円という資金を投入してきた。(原発に対する財政支出は研究開発費や立地対策を合わせて年間約4000億円)したがって、その関係者は大きな利益を受けてきたわけだ。これからも原子力発電を続けるとすれば、まだまだ巨額の予算が付けられ、税金が使われる。そこから利益を得ようとする人たちが原子力発電を継続し、拡大しようとするのは当然かもしれない。しかし、先に見たように、一般国民が原子力発電から得ている利益というのはかなりあやしいものである。反対に、事故が起きたらどんなことになるのかは、今回の事故で誰の前にも明らかになった。天然ガス、太陽光、風力など、いろいろな代替手段が考えられるにもかかわらず、今回のようにひとたび事故が起きると大変なことになる原子力発電を、一般国民があえて選択しなければならない理由はほとんど見当たらないと思うのだが。



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