日曜日の選挙なのに水曜日の今までブログを書かなかったのは、この選挙結果について考え方をまとめるのに時間が掛かったせいです。勿論完全に決着がついたわけではなく、まだまだ自分の中で答えが出てない部分もあります。しかし余り考えていてタイミングを失ってもと思って、見切り発車する事にしました。結論は「稲村和美氏で良くない?」です。
何もわざわざパワハラ疑惑の訳あり物件で失職した斎藤前知事を選ぶ必要はないので、問題なしの稲村氏ですんなり決まるのかと思ってました。前尼崎市長で十分経験のある稲村氏を選ぶ事で「何がいけないの?」という感覚です。稲村氏は年齢も近いからそれなりの常識は当然あるだろうし、実際県政を動かして行く上では県議会や県庁職員達とも上手くやっていける筈なので、むしろ斎藤前知事よりは政策を行う上でアドバンテージがあるのは間違いないという判断です。課題は今まで行ってきた斎藤氏の政策をどう評価するかですが、民意に表れた内容を見たところ「当たり前のことを地道に進めていた」ような感じなので、それを継続して行けばいいんじゃないかと思いました。問題ありません。さらにはニュースでも報じられた通り現22の市長達とも良好な関係が期待出来る訳で、稲村和美氏を選ばない理由が私には全く見当がつかないんです。何ででしょう?
もし稲村氏を選ばない理由があるとすれば、唯一「現兵庫県議会と県職員の全部」に対して県民が「NO!」を突きつけて完全対決の道を選んだ、としか思えません。
この場合は旧来の既得権益に守られた県政を民意が「NO」と言ってる訳ですから、今後の斎藤新知事がやるべき事は「反対する職員を片っ端から左遷・降格・辞職に追い込んで、自分の改革路線に一緒に邁進してくれる信頼できる部下を県の要職に据える」ことしかありません。そして新しい職員と共に一丸となって県民の望む県政を実現することになります。今回の選挙の結果が示すことは「そういうこと」じゃないかな?、というのが率直な感想でした。自民党が負けた衆院選と考え方は同じです。とにかく「腐り切った連中」を一掃して、ちゃんとしたまともな政治の出来る組織に作り変えて欲しい、そういう県民の願いが選挙結果に表れたのだと思います。
稲村氏はSNSとかどうとかではなく、旧来の県議会・県庁職員の県民をそっちのけにした独善的県政にNOという審判を下した民意によって、言わば「トバッチリを受け」て負けたと言うことになります。選挙の争点は一般的な公約とか人柄とかの選択ではなく、一人で固陋に堕した県政の改革に立ち向かう斎藤氏と、それを陰湿な告発文書や不信任決議案で葬り去ろうとした抵抗勢力との「孤軍奮闘」の闘いだった、と言えるのではないでしょうか。アフガン帰還兵の孤独な戦いを描いたアメリカンヒーロー「ランボー」を彷彿とさせるストーリーですね。SNSはそういう分かりやすいストーリーやちょっとしたエピソードで作り上げられる人物像を個人が自由に拡散するのに「うってつけ」だったと言えます。
多分実際に起こったのは次のようなことではないかと思っています。
まず今迄テレビやマスメディアで流されていたスキャンダラスで独裁者的な姿が余りにもひどいものだったので嫌悪感を覚えると同時に本当なの?という思いもあったのでしょう。それが実際に選挙運動中で見る斎藤氏の印象とかけ離れている事に違和感を覚えた県民が、途中から「事実はどうなんだろう?」と色々調べ始めたことで流れが変わったのでしょう。今まで県政とか県庁の役人とかにある意味嫌な思いとか変わって欲しいという思いを抱いていた人々が一斉に斎藤氏を支持し始めて、それぞれSNSなどに意見を上げ、それを読んだユーザーが演説会場に足を運び斎藤氏の演説を聞いて「さらに支持を広めた」という流れです。そういう、よく分からない時に調べる方法はテレビや新聞ではなくて「SNSだった」というのが今回明らかになった特徴だと思います。ただ流れて来た一方通行の情報を鵜呑みにするんじゃなく、自分の頭で考え「判断して」斎藤氏を選んだ、そんな意識が「最終的な民意」となって再選を果たした、それが「事実」だと思います。
テレビ・新聞は「今日はこういう事があった」と報じるだけで、見る者の側からすれば「肝心の事」は何も教えてくれません。勿論犯罪の裏側に潜む心理とか最も知りたい事は「まだ確実に分かったわけじゃない」にでマスコミは報道出来ないわけですが、それが聞く側にしてみれば「本当はどうなんだ?」と疑問が解消されずに膨れ上がることになります。それに比べてSNSや YouTube などは「知りたい事実をピンポイントで答えてくれる」ので、簡単に疑問が解決するのです。要は、Q&A形式で答えが出るから「なるほど!」となるわけです。じゃあ、その答えは正しいのか?というのは考えてはいません。だって自分の仲の良い友達が言っている事にいちいちエビデンスは求めないでしょう?、感覚的に同調するのが普通です。それがポピュリズムって言うわけです。「あれはこういう事なのよ」と訳知り顔に言う人がいて、その人の語る内容や切り抜いた動画などが自分の「もしかして?」と描いていたストーリーと同じ答えになった時、「やっぱりな」と人は得心がいくのです。
答えは「既に自分の頭の中にあった」とも言えます。
現在の政権に民衆の不満が溜まっている状態で「何かのキッカケになるような事件」が起きる時、民衆の選択を分析すれば「もう我慢出来ない」という心理に動かされて、一方向に突き進んで行くのだと思います。状況は違いますが、あのフランス革命の起きた状況も「心理の根底に流れる感情」は似たようなものだと言えるかもしれません(ちょっとオーバーかも)。
選挙の争点は結果として、斎藤氏個人の「旧勢力との対決」になりました。斎藤氏のパワハラ問題は現在本人が反省していて、これからコミュニケーションを改善するように努力すると言っているので「それが出来るなら最初っから治せば良かった」とも言えるわけですが、まあそれ程重大な事とは思わなかったのでしょう。問題はパワハラを指弾した文書を単なる公益通報とは捉えずに、「既得権益にあぐらをかいてきた旧勢力の反撃」と取って、抵抗勢力の切り崩しを図ったのだと言うのが斎藤氏側の考えでしょう。私はそのストーリーを選びますが、はてさて真実はどうだったかのか分かりません。自分は県政を前に進めているリーダーなんだから、お前等は黙って「言われた通りにやればいいんだ!」、というワンマンの陥りやすい「独りよがり」になっていた可能性もあるとは思います。
まあ私が想像するに、出来る人間ほど「こういうパターン」に陥りやすいんんじゃないでしょうか。
これから斎藤氏は長い茨の道を進まなければならないわけですが、まずやる事は「県庁で自分の味方を地道に増やしていく」事に尽きると思います。自分のやりたい県政を十分理解し、反対する者をじっくり説得して味方につけ、末端の職員まで斎藤イズムを浸透させギャップを埋めてくれる人材を確保することが、一見遠回りに想えるかも知れませんが本来彼の望んでいる改革を「最も早く実現する方法」だと私は思います。健闘を祈ります(もしかしたら真実は「全然違うストーリー」かもしれませんが)。
という事で、暫くは兵庫県政を見守りたいと思います。
注)一部報道に立花氏の功績を云々するコメントが散見されますが、彼のやっている事は「民主主義ではありません」ので、私はNOです。
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