16千葉の路線バス乗車拒否
障害者を乗せずに発車したとの地域密着のニュースである。「ひるおび」ではサラッと取り上げただけだが「もう少し寛容な社会」になっていこう、と締めて終わった。アッサリしたものである。バスでは一般客と同じに扱うよう(差別することがないように)教育している、という話だったが、私はもう一歩進んで「障害者の対応をきちんと決めると良い」という立場である。それは障害者の介助者に手伝ってもらうことも考えての対応なので、進化系とも言える。
それは
1バスの運転手は「前後のバスの運転手とバス停に無線通信が出来る」ようにヘッドセットをつける。現代はスマホで何時でも誰とでもつながれる時代である。この便利な機械を使わない手はない。そこで前後のバスが連絡しあって「調整」しながら運行するのだ。よく路線バスが2、3台連なって走ってくることがあるが、待っている人が全部先頭の車両に乗ろうとするので後ろが詰まってしまうのである。これを、先頭車両は下ろすだけにして、待っている人は後ろの車に乗せるようにすることで「先頭の車の遅れを取り戻す」方法である。なお、障害者についてはバスの運転手に連絡できる方法(発信者が分かるパスワードなど)を渡しておくことで、対応が可能になる。
2今回のような始発での障害者乗車については、介助者が予めバスの運転手に連絡して、出発時刻より前に障害者の乗車を始められるよう準備する。こうすることで運行時間が定刻に近くなる。
3障害者が乗ることはこれからは「常態化していく」と思われるから、乗る側も「公共交通機関は障害者をベースに運行」するものだという認識が、必要となってくる。よく電車で「気分が悪くなった人への対応で停車しました」とアナウンスしているのを聞くが、あれと同じである。
そもそも日本の交通機関は、無意味な職人気質の影響で「ダイヤ通り1分1秒違わずに運行」することを誇りにしていた。これを社会が「日本人は凄い」と持ち上げるもんだから、「それが当然」という誤った風潮が定着して、「ちょっとでも遅れると駅員に食って掛かるバカ」がいたり、ダイヤ通りに動くと勘違いして「それを当てにして仕事を組み立てるバカ」が大騒ぎする事態が続出するようになっている。イタリアのように「何時来るか分からない電車」にしろとは言わないが、少しは余裕を見て「前後5分位のズレ」は読み込みづみ、位にしておくべきだろう。ニュースでは障害者の乗降に5分かかる、と伝えている。ささいなニュースであるが、実は社会のあり方・ひいては自分の生き方につながるニュースだと感じた次第である。それで例えば駅の到着時間が〇〇分というのではなく、「〇〇分〜〇〇分」という表示にするなんて面白いではないか。そういう余裕のある社会って、すごく暮らしやすく「笑顔にあふれた社会」に感じられる。昨日のブログで、ウーマン村本の「心に余裕がない」という発言について書いたばかりだが、すべての問題の殆どは「このことに尽きる」、と改めて思った。同じくブログで書いた「口角を上げること」も、この「心の余裕」につながるのかなと思えば、言ってることが見事につながって私もちょっと自慢です。まあ、年金暮らしだから、ともいえるけど。そう言えば昔、会社の上司と雑談していて、待ち合わせしていて相手が遅れたらどうする?と言う話になって私が「仕方ないからくるまで待つ」と答えたら、彼は「待つのは5分と決めている」だった!。流石に「商談でそれはない」とは思うが、プライベートの場合は例外なくそうしているらしい。「理由は聞かない」と言っていた・・・、恐ろしいほどの「約束だから」的な考えである。こういう人と付き合うと、正直「息が詰まる」のは私だけではないだろう。ちなみに彼は「A型」である。
17キャッシュレスのブームで〇〇PAYが乱立
去年から続いている〇〇PAYの争いに、ヨドバシカメラが参入するとニュースのどこかで見た。噂ではヨドペイだというのだがホントかどうか。いい加減にこういうものは統一方式にならないものかと思う。その昔、SONYのベータとビクターのVHSとで熾烈な競争があり、結果VHSが勝ち残ったとういう歴史があったが、今回の〇〇PAYも、いずれは同じ道をたどることになるのだろうか。その決着が着くまでの期間は「消費者も含めて混乱が続く」ことになり、一番の目標であるキャッシュレスそのものの流れが「変な方向へと行く」可能性もある。こういうものこそ、政治主導するべきではないかと思うのだがどうだろう。何故決められないのか、私は疑問でしょうが無い。片方で便利な方法があり、もう片方で不便な方法があるなら、どうして便利な方で統一しないか理解に苦しむ。これは方式の便利さ簡単さに関わらず、そこに企業の論理が関係しているからに他ならない。いわゆる囲い込みである。本来サービスの一環として始まったポイントシステムが、そもそも顧客の囲い込みや消費動向の調査に使われるようになっていき、単純に「儲けすぎたお金を消費者還元する」というような話では無い、というのが原因なのだ。というか「そんな企業は無い」。で、私の提案だが、〇〇PAYはあくまで「支払い方法の一つ」であり、決して「新しいお金」が増えるわけではない、ということ。要は現金支払いには必要のない「後日引き落としの確約」をどのようにするか、という問題である。プリペイドカードである「ナナコ」などは企業に既に払い込んであるお金を「支払いに回すだけ」だから、〇〇PAYのような「カード決済」ではない。デビッドカードは銀行が発行する即時引き落としカードだが、カード会社が銀行になっただけなので、〇〇PAYと同じである。ただナナコにしてもデビッドカードにしても他のカード会社のカードにしても、「専用の端末機」が必要であることには変わりがない。〇〇PAYがニュースで取り上げられているのは「専用端末が不要である」ところが新しいからだ。スマホのアプリだけで完結するところが受けて、中国では「〇〇PAYが50%とか70%とか」大流行らしい。そこで、レジの請求金額をスマホの支払い情報で如何に早く手軽に決済するか、と言う問題に絞って考えれば、自ずと「最上のやり方」が決まるではないか!。勿論、本人認証とか支払能力の確認とか、必要最低限のことはクリアしているものとする。だから「支払い方式」としての〇〇PAYは、システム自体は「政府主導の統一方式」に決定する、で良いのだ。私の考えでは、全ての〇〇PAYに共通の方式で「消費者が自由に選べ」、なおかつ「お店が0円で導入出来る方式」に決定して、それ以外の特殊な方式を採用するものは「禁止する」のが良いと思う。プリペイドとデビットカードは「お金を先に預けてあるから無料で、経費は会社が持つ」のが当然だし、カード決済は「お金をカード会社が建て替えているのだから、使用する消費者が払う」ので文句はない。カードで払うと「お店が何%かを払う」というのがそもそも変なのだ。利用者が払うことに「法律で決めれ」ば良い。お店が払うのをやめて、カードを使っても「お店は一切負担なし」とすれば、〇〇PAY方式も一気に広まるのは確実である。場合によっては「国が参入する」のもありではないか、と考えている。これは個人の取引を全部「戸籍台帳と紐付けする」という、本物のキャッシュレス(現金廃止)体制に向けての第一歩でもある。それぐらいの壮大な計画を考えなければ、政治家とは言えないのではないか。こう考えると、70や80の爺さん連中ではとても発送が追いつかないであろう。18歳から50歳くらいまでの想像力のある若い世代の力を使ってこの問題に真剣に取り組まなければ、キャッシュレスの波に「乗り遅れる」のは目に見えていると思う。まあ、日本人には想像できないかなぁ、「現金と全く同じ」〇〇PAY。タバコ屋でも八百屋・魚屋でもどこでも使えるようになってくれば、皆んな使うと思うんだよね。そのためにも「方式の統一」が絶対必要だ。経済産業省などは今からでも遅くないから、是非、方式の統一に向けて「法制度の整備」に入って欲しいものである。
18富山でまたまた議長が辞任
政務活動費を不正に流用したとして14人が辞職した富山市議会で、またしても議長が飲食代に使っていたらしい(過去の話がバレた)。まあ過去の話が続出しているわけだが、根本的な解決はどうすれば良いのか、富山県民の旧態依然とした意識の低さがカギである。それでこの際、まず何だかんだ意見はあろうが、「政務活動費は自腹」とすることである。それで議員としての活動がどうのこうの言うようであれば、議員を辞めればいい。そうするとお金のある資産家がどんどんと「お金をふんだんに使って有利」になるから、議会が「富裕者」に有利になっていく。それがどんどん「大っぴら」になっていって、しまいに「富裕者が得する市」という汚名が、全国に鳴り響く。その汚名に有権者が耐えられるかどうか、選挙で「市民の意識」を証明するようになるまで追い込むことが、「一番の薬」だと私は思う(ちょっと過激)。政治は、強者が弱者を収奪する仕組みを制度化したものである。富山が弱者を痛めつける市とわかればいずれ、徐々に皆んな離れていって衰退していくであろう。それが歴史の必然である。そんな汚名まみれの市に住所を置こうと思う人などいなくなるに違いない。富山消滅、見捨てられた「政務費流用の町」、なかなか素晴らしいネーミングと思うけどね。要するに、このくらいのお灸を据えることしか市民の意識は変えられないということだ。民主主義というのは時間がかかるものである。富山は(富山に限らないが)、まだ市民同志が自分たちの勢力拡大を狙って争う「古い構造」の市議会だと思う。本当の民主主義というのは、「市民全体の総合的利益」を目指すもの、ということではないか。無知な民衆は、またしても「心に余裕がない」のである。そう言えば、父が富山に赴任した時に、地元の人から「そうですか、マンション以外に別に土地も持っていらっしゃるなんて、凄いですね」と羨ましがられたそうだ。富山の人は、土地を持っていると聞くと「しっかり資産を持っている人」と尊敬するらしい。土地土地で随分考え方が違うもんだ、とその時は思っただけだったが、今にして思えば脈々と伝統は生きている。富山県は全国勤労者世帯貯蓄額で福井県についで2位になったこともあるから、お金には相当細かいと言える。それも政務調査費をくすねることの要因と言ったら、余りにもうがった見方だろう。それほど富山市民はバカじゃない、と思いたい。
19ブラタモリのパリ
いつも面白く見ているブラタモリ、今回はフランスのパリ、ローマに続いての海外シリーズの2回目である。基本的には2000年間同じところにあるパリ、それを18世紀に大改造して今のパリが出来上がったというのだ。問題はオスマンという市長が「やるべきことを万難を配して行った決断力」の凄さである。もちろん王政と民主主義とで個人の権利の重要性が異なるとはいえ、必要な道を設計どおりに通して、不要な建物を「バッサバッサ建て替える」実行力には爽快感すら覚えてしまう。それに建築石材がすぐ近くに豊富にあったという幸運に恵まれたとはいえ、高さやバルコニーの形に至るまで統一した「街づくりのセンス」には驚かされる。彼は通りから見える建物と建物の向こうに「象徴的な建築物が目に入るように考えて」建物を配置したらしい。パリの有名なオペラ座も、通りの正面に薄っすらと見える姿が実に魅惑的である。観光立国と言い始めてから日本も相当努力してるらしいが、パリの「根本から作り変える迫力」には、てんで及びがつかないと言わざるを得ない。東京などでは、ちょっと道幅を広げるだけで「どえらい騒ぎ」になる。こないだの世田谷の児童相談所建設反対もそうであるが、何もかもが「自分たちの利益にどっぷり浸かってしがみついている連中」の存在が邪魔して進まないのである。こういう民衆の愚かさを見ていると、誰か一人が「こうするぞ!」と気持ちを決め、反対されようとどうしようと実行すること。それが都市計画には必須だと思うのである。パリは自然に出来上がったものではない。「人工的に出来た」ところに、彼らの凄さがあるのだ。自分の利益より皆んなの利益を、という考えが「フランス啓蒙精神」の理想であろうか、羨ましいものである。ブラタモリを見て改めて思った、フランス恐るべし。
障害者を乗せずに発車したとの地域密着のニュースである。「ひるおび」ではサラッと取り上げただけだが「もう少し寛容な社会」になっていこう、と締めて終わった。アッサリしたものである。バスでは一般客と同じに扱うよう(差別することがないように)教育している、という話だったが、私はもう一歩進んで「障害者の対応をきちんと決めると良い」という立場である。それは障害者の介助者に手伝ってもらうことも考えての対応なので、進化系とも言える。
それは
1バスの運転手は「前後のバスの運転手とバス停に無線通信が出来る」ようにヘッドセットをつける。現代はスマホで何時でも誰とでもつながれる時代である。この便利な機械を使わない手はない。そこで前後のバスが連絡しあって「調整」しながら運行するのだ。よく路線バスが2、3台連なって走ってくることがあるが、待っている人が全部先頭の車両に乗ろうとするので後ろが詰まってしまうのである。これを、先頭車両は下ろすだけにして、待っている人は後ろの車に乗せるようにすることで「先頭の車の遅れを取り戻す」方法である。なお、障害者についてはバスの運転手に連絡できる方法(発信者が分かるパスワードなど)を渡しておくことで、対応が可能になる。
2今回のような始発での障害者乗車については、介助者が予めバスの運転手に連絡して、出発時刻より前に障害者の乗車を始められるよう準備する。こうすることで運行時間が定刻に近くなる。
3障害者が乗ることはこれからは「常態化していく」と思われるから、乗る側も「公共交通機関は障害者をベースに運行」するものだという認識が、必要となってくる。よく電車で「気分が悪くなった人への対応で停車しました」とアナウンスしているのを聞くが、あれと同じである。
そもそも日本の交通機関は、無意味な職人気質の影響で「ダイヤ通り1分1秒違わずに運行」することを誇りにしていた。これを社会が「日本人は凄い」と持ち上げるもんだから、「それが当然」という誤った風潮が定着して、「ちょっとでも遅れると駅員に食って掛かるバカ」がいたり、ダイヤ通りに動くと勘違いして「それを当てにして仕事を組み立てるバカ」が大騒ぎする事態が続出するようになっている。イタリアのように「何時来るか分からない電車」にしろとは言わないが、少しは余裕を見て「前後5分位のズレ」は読み込みづみ、位にしておくべきだろう。ニュースでは障害者の乗降に5分かかる、と伝えている。ささいなニュースであるが、実は社会のあり方・ひいては自分の生き方につながるニュースだと感じた次第である。それで例えば駅の到着時間が〇〇分というのではなく、「〇〇分〜〇〇分」という表示にするなんて面白いではないか。そういう余裕のある社会って、すごく暮らしやすく「笑顔にあふれた社会」に感じられる。昨日のブログで、ウーマン村本の「心に余裕がない」という発言について書いたばかりだが、すべての問題の殆どは「このことに尽きる」、と改めて思った。同じくブログで書いた「口角を上げること」も、この「心の余裕」につながるのかなと思えば、言ってることが見事につながって私もちょっと自慢です。まあ、年金暮らしだから、ともいえるけど。そう言えば昔、会社の上司と雑談していて、待ち合わせしていて相手が遅れたらどうする?と言う話になって私が「仕方ないからくるまで待つ」と答えたら、彼は「待つのは5分と決めている」だった!。流石に「商談でそれはない」とは思うが、プライベートの場合は例外なくそうしているらしい。「理由は聞かない」と言っていた・・・、恐ろしいほどの「約束だから」的な考えである。こういう人と付き合うと、正直「息が詰まる」のは私だけではないだろう。ちなみに彼は「A型」である。
17キャッシュレスのブームで〇〇PAYが乱立
去年から続いている〇〇PAYの争いに、ヨドバシカメラが参入するとニュースのどこかで見た。噂ではヨドペイだというのだがホントかどうか。いい加減にこういうものは統一方式にならないものかと思う。その昔、SONYのベータとビクターのVHSとで熾烈な競争があり、結果VHSが勝ち残ったとういう歴史があったが、今回の〇〇PAYも、いずれは同じ道をたどることになるのだろうか。その決着が着くまでの期間は「消費者も含めて混乱が続く」ことになり、一番の目標であるキャッシュレスそのものの流れが「変な方向へと行く」可能性もある。こういうものこそ、政治主導するべきではないかと思うのだがどうだろう。何故決められないのか、私は疑問でしょうが無い。片方で便利な方法があり、もう片方で不便な方法があるなら、どうして便利な方で統一しないか理解に苦しむ。これは方式の便利さ簡単さに関わらず、そこに企業の論理が関係しているからに他ならない。いわゆる囲い込みである。本来サービスの一環として始まったポイントシステムが、そもそも顧客の囲い込みや消費動向の調査に使われるようになっていき、単純に「儲けすぎたお金を消費者還元する」というような話では無い、というのが原因なのだ。というか「そんな企業は無い」。で、私の提案だが、〇〇PAYはあくまで「支払い方法の一つ」であり、決して「新しいお金」が増えるわけではない、ということ。要は現金支払いには必要のない「後日引き落としの確約」をどのようにするか、という問題である。プリペイドカードである「ナナコ」などは企業に既に払い込んであるお金を「支払いに回すだけ」だから、〇〇PAYのような「カード決済」ではない。デビッドカードは銀行が発行する即時引き落としカードだが、カード会社が銀行になっただけなので、〇〇PAYと同じである。ただナナコにしてもデビッドカードにしても他のカード会社のカードにしても、「専用の端末機」が必要であることには変わりがない。〇〇PAYがニュースで取り上げられているのは「専用端末が不要である」ところが新しいからだ。スマホのアプリだけで完結するところが受けて、中国では「〇〇PAYが50%とか70%とか」大流行らしい。そこで、レジの請求金額をスマホの支払い情報で如何に早く手軽に決済するか、と言う問題に絞って考えれば、自ずと「最上のやり方」が決まるではないか!。勿論、本人認証とか支払能力の確認とか、必要最低限のことはクリアしているものとする。だから「支払い方式」としての〇〇PAYは、システム自体は「政府主導の統一方式」に決定する、で良いのだ。私の考えでは、全ての〇〇PAYに共通の方式で「消費者が自由に選べ」、なおかつ「お店が0円で導入出来る方式」に決定して、それ以外の特殊な方式を採用するものは「禁止する」のが良いと思う。プリペイドとデビットカードは「お金を先に預けてあるから無料で、経費は会社が持つ」のが当然だし、カード決済は「お金をカード会社が建て替えているのだから、使用する消費者が払う」ので文句はない。カードで払うと「お店が何%かを払う」というのがそもそも変なのだ。利用者が払うことに「法律で決めれ」ば良い。お店が払うのをやめて、カードを使っても「お店は一切負担なし」とすれば、〇〇PAY方式も一気に広まるのは確実である。場合によっては「国が参入する」のもありではないか、と考えている。これは個人の取引を全部「戸籍台帳と紐付けする」という、本物のキャッシュレス(現金廃止)体制に向けての第一歩でもある。それぐらいの壮大な計画を考えなければ、政治家とは言えないのではないか。こう考えると、70や80の爺さん連中ではとても発送が追いつかないであろう。18歳から50歳くらいまでの想像力のある若い世代の力を使ってこの問題に真剣に取り組まなければ、キャッシュレスの波に「乗り遅れる」のは目に見えていると思う。まあ、日本人には想像できないかなぁ、「現金と全く同じ」〇〇PAY。タバコ屋でも八百屋・魚屋でもどこでも使えるようになってくれば、皆んな使うと思うんだよね。そのためにも「方式の統一」が絶対必要だ。経済産業省などは今からでも遅くないから、是非、方式の統一に向けて「法制度の整備」に入って欲しいものである。
18富山でまたまた議長が辞任
政務活動費を不正に流用したとして14人が辞職した富山市議会で、またしても議長が飲食代に使っていたらしい(過去の話がバレた)。まあ過去の話が続出しているわけだが、根本的な解決はどうすれば良いのか、富山県民の旧態依然とした意識の低さがカギである。それでこの際、まず何だかんだ意見はあろうが、「政務活動費は自腹」とすることである。それで議員としての活動がどうのこうの言うようであれば、議員を辞めればいい。そうするとお金のある資産家がどんどんと「お金をふんだんに使って有利」になるから、議会が「富裕者」に有利になっていく。それがどんどん「大っぴら」になっていって、しまいに「富裕者が得する市」という汚名が、全国に鳴り響く。その汚名に有権者が耐えられるかどうか、選挙で「市民の意識」を証明するようになるまで追い込むことが、「一番の薬」だと私は思う(ちょっと過激)。政治は、強者が弱者を収奪する仕組みを制度化したものである。富山が弱者を痛めつける市とわかればいずれ、徐々に皆んな離れていって衰退していくであろう。それが歴史の必然である。そんな汚名まみれの市に住所を置こうと思う人などいなくなるに違いない。富山消滅、見捨てられた「政務費流用の町」、なかなか素晴らしいネーミングと思うけどね。要するに、このくらいのお灸を据えることしか市民の意識は変えられないということだ。民主主義というのは時間がかかるものである。富山は(富山に限らないが)、まだ市民同志が自分たちの勢力拡大を狙って争う「古い構造」の市議会だと思う。本当の民主主義というのは、「市民全体の総合的利益」を目指すもの、ということではないか。無知な民衆は、またしても「心に余裕がない」のである。そう言えば、父が富山に赴任した時に、地元の人から「そうですか、マンション以外に別に土地も持っていらっしゃるなんて、凄いですね」と羨ましがられたそうだ。富山の人は、土地を持っていると聞くと「しっかり資産を持っている人」と尊敬するらしい。土地土地で随分考え方が違うもんだ、とその時は思っただけだったが、今にして思えば脈々と伝統は生きている。富山県は全国勤労者世帯貯蓄額で福井県についで2位になったこともあるから、お金には相当細かいと言える。それも政務調査費をくすねることの要因と言ったら、余りにもうがった見方だろう。それほど富山市民はバカじゃない、と思いたい。
19ブラタモリのパリ
いつも面白く見ているブラタモリ、今回はフランスのパリ、ローマに続いての海外シリーズの2回目である。基本的には2000年間同じところにあるパリ、それを18世紀に大改造して今のパリが出来上がったというのだ。問題はオスマンという市長が「やるべきことを万難を配して行った決断力」の凄さである。もちろん王政と民主主義とで個人の権利の重要性が異なるとはいえ、必要な道を設計どおりに通して、不要な建物を「バッサバッサ建て替える」実行力には爽快感すら覚えてしまう。それに建築石材がすぐ近くに豊富にあったという幸運に恵まれたとはいえ、高さやバルコニーの形に至るまで統一した「街づくりのセンス」には驚かされる。彼は通りから見える建物と建物の向こうに「象徴的な建築物が目に入るように考えて」建物を配置したらしい。パリの有名なオペラ座も、通りの正面に薄っすらと見える姿が実に魅惑的である。観光立国と言い始めてから日本も相当努力してるらしいが、パリの「根本から作り変える迫力」には、てんで及びがつかないと言わざるを得ない。東京などでは、ちょっと道幅を広げるだけで「どえらい騒ぎ」になる。こないだの世田谷の児童相談所建設反対もそうであるが、何もかもが「自分たちの利益にどっぷり浸かってしがみついている連中」の存在が邪魔して進まないのである。こういう民衆の愚かさを見ていると、誰か一人が「こうするぞ!」と気持ちを決め、反対されようとどうしようと実行すること。それが都市計画には必須だと思うのである。パリは自然に出来上がったものではない。「人工的に出来た」ところに、彼らの凄さがあるのだ。自分の利益より皆んなの利益を、という考えが「フランス啓蒙精神」の理想であろうか、羨ましいものである。ブラタモリを見て改めて思った、フランス恐るべし。
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