明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

人生の終わりにあたって、私がこれから気を付けようと思っていること(その2)

2022-09-03 16:59:54 | 今日の話題

2、誰にも頼らずに独りで生きていく

私は世間の人を評価体系の外に置くことにしたので、その結果として当然ながら「自分を自分で評価する」必要が出て来る。煩悩を捨て去り、世間の動向に気を使いながら生きていくことを止める代わりに、自分を常に正しい道に引き戻す「確固たる信念」を持つ必要が生じた訳である。日本には「寄らば大樹の蔭」という諺がある。世の中の権力構造、今で言えば「自民党保守本流の流れ」に乗っかって強者に寄り添い弱者を叩く「勝ち組グループ」の一員となり、チマチマ小銭を稼ぐのが一番楽な生き方には違いない。しかし私はそういう生き方は好きではなかった。生来の「あまのじゃく」なのだ。・・・というか、その方法では「精神の独立」が保てない、と思ったのである。

世の中の人は何かの考えや意見を言うときに、常識的で一般的で「ある意味、抽象的」な理屈を並べる人と、独創的で個別的で「具体的」な提案を述べる人の、2つに分かれると考えられる。そして、私はこの両者を比べてどちらが好きかと考えた時、後者のタイプになろうと思った。だから自分が意見を言う時にはいつでも「自分なりの具体的な解決策」を提示しよう、と心に決めている(つもりだ)。もし、上手い具合に有効なアイディアが浮かばなかったら、その時は他人の意見にじっと耳を傾ければ良いのでは・・・。いつも話題の主役になる必要は、サラサラない。何よりこの具体的な解決策は、余程の情報力・分析力・発想力がないと「良いアイディア」は浮かばないのだ。何よりまず、世の中の「何が問題点か」を見付け出す鋭い目が必要ではないだろうか。つまり「 冷徹なリアリストたれ!」である。

私にとって他人は、お互いを気にして相手がどう思っているか探りながら生活する相手、ではない。世間の人々というのは、我々が目標を定めて努力し生活していく時に、たまたま側にいる「単なる隣人」である。自分の興味があること以外は何であれ、単なる「風景」として通り過ぎるのが、ベストではないだろうか。世の中のことに一々首を突っ込み、あーだこーだ「争論を構える」というのは、人生にとって何のプラスにもならない瑣末なことである。だから日々繰り返される色々なニュースにも距離をおいて、最近はそれ程熱を入れて見なくなっている。

そんな中、テレビに出てくる専門家やコメンテイター達の力量が、人によって大分「差のある事」が気になった。それも、話が抽象的で一見もっともらしく聞こえるがちょっと考えると何も「具体的なこと」を言ってなく、我々には何の情報も与えてないことに気付く場合が多くなったのである。彼らはテレビに出てきて何かを言っているのだろうが、何も具体的な解決策を提示できないから、結果、なんの「役にも立たない」のだ。私はその人が問題点を分析し、それを解決する何か「具体的な方法」を提案した時に初めて、じっくり耳を傾けることに最近はしている。

例えばコロナ渦に生活を奪われて迷走する人々に対し、明確な「行動指針」を示して導いていくのが政治家の仕事の筈なのだ。小池都知事も最初のうちは「三密を避ける」など、あれこれ具体的な対策を発表していたが、最近は全く影を潜めて、存在すら見えなくなってしまった。彼女も何か魂胆があってそういう行動を取っているのかも知れないが、このままでは都知事という、強力なリーダーシップが必要な仕事を続けることは「無理」なんじゃないか。問題発生に対し、いち早く具体的な行動を命令して初めてその対策が正しかったかどうか、検証することが出来る。何もしないのであれば、いなくても同じではないかとも言える。首相や都知事のような強大な権力を与えられたものは、その権力に見合った「タイムリーな施策」を実行してこそ、選ばれた意味がある。

つまり、抽象的なイメージで議論を組み立てるのではなく、確かな事実を一つ一つ積み重ねて、そしてこれが一番大事だが、問題を解決する「実行可能な、具体的な方法」を提示することてある。これをしない人あるいは出来ない人は、議論に参加する資格はない。だが、何でも具体的であればどんなアイディアでも良いってもんでもない。ここが難しい。要するに、実行可能で尚且「根本的で網羅的な具体的解決策」が一番良い。対症療法では効果は限定的である。

こう考えて私は日々「頭のトレーニング」の為に、ニュースに出て来る諸問題を一挙に解決する「実行可能な具体策」を研究し、これを日課として暇な時間を過ごしている(実に呑気である)。

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「私は小説を書くようになってから、日本人とは何か、ということばかりを考えてきたように思う」・・・。司馬遼太郎の言葉だそうだ。しかしこの言葉は「日本人」という抽象的な、ある意味「よくわからない対象」を指して「何であるか」を考えようとしているのだから、実は「自家撞着の穴ぼこに落ちた」理論なのである。勿論、司馬遼太郎はそのことをよく分かっていただろう。

つまりまず、

① 司馬遼太郎は自分を日本人だと思っている(これは間違いない)

② そしてある日、何か「究極の日本人像」といった性質を、己の中に見つけるとしよう

③ そして日本人とは「こういう性質がある」と言うのだ

しかし私が思うに、それは単に「司馬遼太郎の性質」であって、「日本人の性質」ではないのではないか?。

同様に、アメリカ人の性質やインド人の性質やコンゴ人の性質といったものは皆、その人がたまたま知っている一人の(または複数の)個人の性質に、過ぎないのである(但し、長い年月の間にDNAが枝分かれして云々、といった学問的な話は別である)。

だから司馬遼太郎の言う「日本人とは何か」と言う意味の文化人類学的日本人論というのは、「真のリアリスト」の考えるべき事柄ではない、と私は思う。そう、何か気に入らないことがあって相手が自分と違う意見を持っていたとしても、「だから中国人は嫌いだなんだ!」と十把一絡げに言ってしまうのは誤りである。そうではなく、その代わりに「だから〇〇さんは嫌いだ」と言う風に、対象を個人に限定して考えることにしたい。私が嫌いなのは中国民族14億人全員ではなく、その中の「〇〇」さんが嫌いだ、というのが「事実」なのだ。極端なことを言えば、その他の13億9999万9999人の事は、私は全然知らないのである。彼らが何を考えているかは、会って話して見ないとわからない(会ったって分からない、かも・・・)。知らないことを「さも知っているように」言うのは、とてもリアリストとは言えないのではないか。これは、他のこと全てに通用する「鉄則」であろう。

良く知らないことを抽象的なカテゴライズ・グルーピングをして、それで一言に片付けるのはリアリストとは対照的な、私の最も嫌いな「非人間的な」考え方である。・・・結局はこの違いを理解して、事実に立脚した理論を展開する人が「真のリアリスト」であり、真実を見る目を持っていると言えるのではないだろうか。私はどちらかと言えば、死ぬまで「実践的なリアリスト」で生きてみたい(他人にそう評価されるのではなく、自分でそう思って生きていたいと考えている)。

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年金暮らしになったついでに全ての世間的肩書を綺麗サッパリ捨てて(大した肩書ではないが、一応「身分証明の代わり」にはなっていた)、只の「個人として」生きることにした(というか、なってしまったというのが正解)。・・・これが「本当の断捨離」であろう。もう、頼るものは自分自身だけである。そう言えば最近人に「お仕事は何をなさっていらっしゃいますか?」と聞かれることは全く無くなった。もう社会的には無用の存在ということなんだろう。だがそれで「本当の自分になれた」と思う。私は私、それ以外の何物でもないと胸を張って生きていきたいものである。


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