1、デジタルと記憶力は関係あるのか
人間の脳は「スマホなど」に表示された文章と「本など」に印刷された文章とで、それを記憶する能力に違いがあるそうだ。これは東大かどこかで実験した結果から分かったらしい。
なんでも、記憶したい内容そのものを覚えているかという点では調査結果が出てないが、本などアナログ媒体に記録されている物のほうが「色んな事を複合して覚えている」ということのようだ。それと比べてデジタル媒体は、何を読んでも見た目には変化がないので、「内容のみ」が記憶されるということ。例えば本を読んでいると「あの場面の箇所、どこに書いてあったっけかな?」ということが良くある。ちょっと確認したいのだが、場所が分からない・・・という具合だ。
この場合は、本なら付随する情報が多くあって、確か「右頁の左下」に書いてあった気がする、とか思い出してきて、それで頁をパラパラめくったりする。だがスマホなどで読む文章ではそういう「手掛かり」は全く無いので、ひたすら出くわすまで探し続けることになるというわけだ。
じゃあ、紙に書いてある方が便利かと言うと、スマホには「検索機能」があるので、やっぱりデジタルの方が「ダントツ」に便利なのである。まあ何でもそうだが、新しい機械の方が「何するんでも楽」なのだねぇ。ではスマホで読書が一番かというと、「そうでもない」というから人間というのは面白い。
私は何か文学なり歴史なり、好きな本を読書する時には単に内容を記憶するのではなく、色々な余計な情報が一緒にあればあるほど、案外楽に思い出せるような気がしている。人間の脳は、物を記憶するのにストレートに覚えるのじゃなく、いくつかのファクターに分けて記憶しているそうだ。例えば冷蔵庫は「大きい」「重い」「四角い」「硬い」「冷やす」「食べ物」「電気」などである。これは一見「記憶すること」が多そうに思えるが、実はこちらの方が「沢山覚えられる」らしい。このカテゴライズによる記憶が、「脳の記憶方式」なのである。
我々は記憶を辿る時、物に「名前」をつけて記憶するが、この名前という「キー」で呼び出す記憶というのが実は、人間にとっては非常に効率が悪いらし。脳出血などで脳の一部を損傷すると、大きい品物の名前は言えるのに、ハサミやスプーンといった「小さい品物」の名前が、全く思い出せないということが実際あるそうだ。これは物体を記憶している領域が「大きいものか小さいものか」で、別々のところにあることを意味している。脳は名前より「物体の特徴」を優先するのである。
こないだ友人達と忘年会をやっていたら、友人の一人「SN氏」が女子プロゴルファーの名前を失念して、「あの、その、・・・」と思い出すのに苦しんだ挙げ句、「バスタオルで死ねって言ったヤツ」と言った途端に、一同「あー、笠りつ子ね」と一瞬で理解したことがあった。名前はコミュニケーションを円滑にするためには必須であるが、記憶を呼び起こすのには全く役立たないという良い例である。名前というのは「その人の特長と、全く関係なく付けられている記号」だから、電話番号やマイナンバーと同じく「覚えるのはもの凄く不便」な言葉なのだ。年寄りが集まって会話していると、必ず何回か、名前を思い出すための「沈黙」が入る。これは使わないとどんどん衰える機能だから、私は寝る前に「神武・綏靖・安寧・・・」と天皇名を暗唱してから眠るようにしているぐらいだ。私は60台なりたての頃、「押入れ」という単語が出てこなくて、すわ認知症になったのかと焦ったことがあった。まあ、この物忘れは認知症とは違うようだが、とにかく気になるのは確かである。
いずれにしても何度も読み返して大切にしている本なら、やはりデジタルではなく「紙媒体」で持っておきたい。手触りとか匂いとか、また書き込みや折り目なども、時が経って再びそれを見るのは愛着があって楽しいものだ。出来たら詩歌集などは「美装本」で持っておくと、さらに気分が高揚する。一方、ニュースなど「知るだけの目的」であれば、タブレットなどが便利だろう。ただ、簡単な内容だけでなく「心を読み取る」文章となると、紙のほうがタブレットよりも「なんだか頭に入る」ような気がする。・・・これ、昭和の「古き良き伝統」なのかも。
2、日常にある気づきと共感への想い
NHKラジオで「薄田泣菫」の短編を朗読する番組があった。室生犀星や伊藤左千夫などの名前もある。これは面白そうと思って、まず薄田泣菫から聞いてみた。薄田泣菫は昔、子供の頃日本文学全集なんかで読んだ記憶があって、作品は殆ど記憶にはなかったが名前は知っていた。Wikipedia によれば、島崎藤村や土井晩翠などの後を嗣ぐ、浪漫派詩人の代表だと書いてある。蒲原有明と併称されて、近代詩壇を賑わした詩人だったとも。だが、私はボードレールやランボーやバイロンなどの西洋詩人に憧れていたので、日本の文学者には殆ど興味がなかったのだ。はてさてどんな文章を書くのかと思って、寝床でスマホに耳を傾けた。
書き出しは明治生まれの文人らしく、落ち着いた日常の叙景から始まる。「蓑虫」と言う題の短編は新聞のコラム記事に連載されたうちの一編らしく、何気ないふとした身の回りの出来事や生き物の生態を取り上げて、そこへ人生の機微を重ねていく形をとっている。感情の起伏はあまり無く、淡々と対象を描写していくが文学者というよりは、むしろ研究者の観察眼に近いものを感じた。薄田泣菫は岡山の出で、父親は村役場の書記だったそうだ。17歳で上京し上野図書館に通いながら大学に通い(二松學社)勉学に励んだようである。その後「新著月刊」に自作詩を投稿して認められ、翌年「暮笛集」「行く春」「白羊宮」などを刊行して明治後期の詩壇を代表する詩人となった。同じく詩人の与謝野晶子は、泣菫の詩を愛読していたらしい。
1905年には上田敏の「海潮音」が出版され、1925年に堀口大学の「月下の一群」が刊行された。この頃は日本で西洋詩の訳詩集がブームになり、一般の読者にも西洋の詩人が知られるようになっていった頃じゃないかと思う。私も大学時代に新宿図書館に日参し、古典ギリシャ詩から中世のペトラルカやダンテなど、次々と読破して、最後はボードレール・マラルメ・ランボーに至る「西洋世界」というものに「どっぷり」と浸かっていた。その私からみた近代日本文学というのは、森鴎外や永井荷風といった「洋行帰り」作家による、新しい文化の受容と理解していたのである。そんな目で今一度薄田泣菫を聞くと、何となく「共感」というワードが頭に浮かんでくる。生き物や植物に日常的に接して、ふと親しみや優しさを覚える時、人は何がしかの「共感」に頬を緩ませる。
その共感が、神の愛に向かうのか仏の摂理に向かうのか、どちらかの方向かで「西洋と東洋」が分かれると思う。薄田泣菫はどちらを選んだのか。彼は若いうちに詩作をやめて、新聞連載の「茶話」などの随筆家になったようだ。私は彼の随筆に現れる「心の静謐」が好きである。
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