1、またしても、コロナ患者情報の集計漏れが起きていた
大阪だかどこだかのコロナ発生状況の集計が、去年から長期間にわたって実態と違っていたらしい。 集計から漏れていたのは1万人超だというから困ったもんである。しかもその原因が、保健所からの連絡を FAX で行っていたために入力が追いつかなかった、ということのようだ。世の中は既に5Gの時代だというのに、国の重要な情報収集が「この有様」では何とも情けないではないか。一体デジタル庁はこれをどうみているのか?、って話である。
私が会社勤めをしていた2014年の時点でも、FAX はまだ細々とではあるが使われていた。私のいたのは宝飾業界だったが、まだまだ小さな個人経営の店が多くあり、元々のデータを作成するのが手作業だったというのも理由にあったと思われる。最初の資料が「手作業」で作られていれば、それを電子化するのにはどうしても「入力作業」が必要になる。その入力を末端の保健所で行うか、それともそれらが集まってくる自治体で一括して行うか。何れにしても「最初のデータ作成」が鍵になる。
私が想像するに医療業界では、多分「国の診療報酬」の関係で、コンピュータの導入は「ほぼ100%」と言っても良いのではないだろうか。実際のカルテを電子化しているかどうかというのは別として、患者情報と治療費計算に関しては「どこの病院でもデジタル化されている」と思って、ほぼ間違いない。それなのに何故、保健所に報告する段階で「わざわざ手作業に戻す」ようなことになってしまうのだろうか?。ここが理解できない部分である。
一方、最近のニュースでは患者を乗せた救急車が、受け入れできる病院を見つけるのに「何時間もかかる」事例が多発している、と報じていた。テレビで見ていると119番の緊急通報から患者の家に救急車が到着するまでそれこそ分秒を争う緊迫した状況なのに、そこからどこの病院に運べばいいかという救急車に取って最も肝心なことが、「片っ端から電話をかける」というアナログなやり方なのには驚いてしまった。いつどういう時間帯であれ、受け入れ可能な病院名は「地域救急管理センター」の最重要情報の筈である。時々刻々と変化する情報を瞬時に更新し、さらに新たに発生するかも知れない患者に対応できる態勢を作るには、病院と管理センターとが「密接に」患者受け入れ状況を共有している必要があるのだ。それを実現する方法としては病院で患者データを受付入力すると、それが通信機器を通じて「管理センターのモニタに反映される」ような仕組み、つまり、病院と緊急管理センターの「空き病床情報の共有」が出来ていないと出来ないにのではないだろうか。これは電車の指定席予約状況システムと同じ考えだ。それが「デジタル化」ということだと私は理解している。
では何故、未だに FAX なのか?
まあ理由は色々あるんだろうが、どうせ大した理由ではない。その解決方法を考えるには「病院の先生方」の暇と興味と能力が、全然足らないだけなのである(と私は思っている)。それぞれの病院は「院長先生」が決定権者として君臨していて、未だに「白亜の塔」状態が続いていると聞いている(私の勝手な想像)。日本医師会もコロナについては世間に対して色々とお願いをしているようだが、一転して自分達自身の改革となると、突然「一切の提案を受け入れない」頑固な体質を露わにする。これでは上手く行く筈がない。そこでデジタル庁の登場となるのだ。それこそ「デジタル庁」が率先して解決策を考え出して「救急管理センターと病院と保健所の一体改革」を推進する、で決まりではないか?。私はそれを期待する。これからの日本を背負って立つには、この「デジタル・トランスフォーメイション」を推進するしかないと思う。それはとりも直さず、如何にして「日本人の意識」を根底からデジタル化するか、であろう。日本の未来に向けて「デジタル化された青写真」を描けるかどうか、にかかっていると言っても過言ではない。
・・・で、今のデジタル庁の長官は誰だっけ?
ああ、こんなことではとてもとても、FAX での連絡をデジタル連携に変更することなど「無理、無理!、無理に決まっているじゃん!」である。あーあ、どうすれば良いんだろう?、心が折れそうになる・・・。
2、アベノマスクの評価ってどうなのよ?
ついこないだまで廃棄するのどうのと言っていたのに、応募を募ったら37万人が欲しいと言ってきて、その注文総数が「2億8千万枚」に達したという(ウッソー!)。1枚や2枚の希望で2億8千万枚などとてもいかないから、これは営利目的が過半数を占めていると考えて間違いない。では、誰が何の目的であの「アベノマスク」を希望しているのだろう(さっぱり分からん)。とにかく営利目的であるなら「当然、無償配布する必要もない」わけだし、配送料も頂いて何の不思議もない。これは立派な「取引」ではないか。これは、そういう発想が政府にないことの方が問題である。
案外アベノマスクを貰って溶かすなり何なりして原材料に戻し、それで新たに何かの製品を作ろうという会社があるのかも知れない。あのマスクは「質の良い布」で出来ているらしいから、企業からすれば「使い道が色々ある」と考えても不思議はない。世の中ではアベノマスクの活用法を考えたりしている人が大勢いるそうだが、10枚やそこらを活用したところで8千万枚を消化するのは相当骨が折れるだろう。第一に物がマスクであればマスクとして活用するのが筋である(サイズが小さいから、幼稚園や小学校に配ったら、と私は提案した)。
とにかくどういう利用方法があるにしても、何故「廃棄を決定する前に」各方面に可能性を問い合わせるなりして、再利用の道を探らなかったのか?と疑問が残る。お役所というのは経費が国家予算で、元はと言えば税金である。役所というのは元々自分の稼いだお金じゃないから、「身銭を切って」作ったものを「泣く泣く廃棄する」などという感覚は持ち合わせてはいないのだろう。実は現場の担当者にしてみれば、保管していようが廃棄しようが、そんなこと「どっちでもいい」のである。責任は安倍元首相にある。現場は言われた通りのことをするだけ。ただのロボットである。こういう淡々と仕事をこなすだけ、という公務員は「いらない」よねぇ。
安倍元首相はといえば能天気に「こんなに希望が来ちゃってさぁ」と喜んでいるが、元はと言えば「自分の思いつき」から引き起こした大損失なのだから、発言も「今更どの口が言ってるのか!」という感は否めないだろう。それにしても民間の企業であれば「予算を注ぎ込んで大損失をした」ことは間違いなく追及されて、承認した担当部長はそれなりの責任を取らされるのが当たり前である。それが無ければ仕事に対しての緊張感もないだろうし、真剣に物事を考えることも無いだろうと思われる。
それが、このところの自民党政権に見られる「心のたるみ」である。これは、国民が選挙で「自民党一党独裁」を許しているから起きた「当然の結果」に過ぎない。国政選挙で投票率が低迷し、結果を心配しないでも大差で過半数になると思えば当然「政治はこうなる」という、見本のようなものが今の自民党政権である。まずはアベノマスクを希望している人または団体が「あれをどのように使うつもり」なのか、その上位「20人(または会社)」くらいは(名前は別にしても)発表してもいいのでは、と私は思っている。それと本題とは関係がないが、配送費が10億円とか、ちょっと計算が「とんでもない」金額なのは大問題ではないだろうか。一体どうやって計算したのか、参考までに「これも見積もりを公表」してもらう必要があると私は思う。何でもかんでも「はい何億円」かかります、とかいう大雑把な話は今後はやめにして、「きちんとした見積もり金額」をベースに意見を戦わしてもらいたい、というのが「せめて」もの私の願いである。
とにかく自民党に限らず、税金を「思いつきで」無駄遣いするのはやめてもらいたい!
3、我が家にも3回目のワクチン接種案内が届いた
中身は予診票が入っていて、ファイザーかモデルナかは分からない。私はこのところコロナの第6波が「ピークアウト」しそうなので、ちょっと様子を見ようと思っている。世の中では思ったように3回目の接種が進まない要因の一つに「ワクチンの選り好み」があるんじゃないか、という意見がマスコミなどで話題になっているみたいだ。私はワクチンの副反応が嫌だからということではなく(どちらのワクチンが良いかなどという知識は私にはないが、どうもモデルナは心筋炎の不安が強いように言われている)、このワクチンの「免疫系に与える将来的な影響」について少し疑問があるので接種を控えている。というのも去年7月にファイザーのワクチンを打って以来、何となく「意欲の減退」を感じていて、気力の衰えを「日々実感する」ようになってしまったからである。
これが、コロナにより人付き合いが減った結果、長期にわたって「巣ごもり(というか、体の良い引きこもり)」したことによる運動不足と睡眠障害が原因であれば良いのだが、とにかく体力の衰えが気になっている。体力が衰えているというのは人間でも動物でもそうだが、要は動きが鈍く遅くなり、何にでも億劫になって出歩かなくなって「終いに寝たきりになる」老化現象の第一歩である。ワクチンを打つのがどうこうというのも、この状態を引き起こしたのが「ワクチンのせい」なのではないか?、というのが私の考えている「リスク」の正体なのだ。
結果は出ていない。が、私の友人の近況報告などを見ている限りでは、別にワクチンが「それほど悪さをしている」ようには見えないのである。まあ、3月になって「女子ゴルフのシーズン」が始まれば、例年の如く毎週の結果に一喜一憂する生活が戻ってきて、ワクチンへの不安などは「すっかり雲散霧消して」いるんじゃないかと期待している。そうなれば良いのだが・・・。
4、コーヒーの味
私はコーヒーを一日2杯は飲む。会社勤めをしている頃は、何かにつけ喫茶店でコーヒーを飲むのが活力の素だった。それが病気をして以来、あれほど好きだった「コーヒー」なのに、余り美味しいと感じられなくなっていた。それはコーヒー豆なのか水なのか、色々手を替え品を替えて試してみるのだが、どうしても喫茶店のコーヒーのようには行かないのである。勿論、自分で入れるコーヒーより喫茶店のコーヒーの方が美味くて当然、だとも思う。しかし例え自宅で飲むにしても私の思う「コーヒーらしい味わい」が微かにでも感じられなくては、何のためのコーヒーなのか分からないではないか。コンビニで買ってくる「雪印のコーヒー牛乳」の方が余程美味いというのでは、人様の前で「コーヒー好き」だなどとは、とてものことだが言えないのである。昔はどうやってコーヒーを味わっていたのだろう?
私は生来猫舌だから、熱々のコーヒーを啜って・・・というのはやりたくても出来そうにない。多分、入れ立ての熱いコーヒーは、さぞかし美味いだろうなと思うだけである。何か簡単に入れられて、そこそこ美味しいコーヒーはない物だろうか?。テレビでよく「コーヒー通」の人が出てきて粉の引き方や豆の種類など、まず「自分に合った」コーヒーを知ることが美味しいコーヒーを飲む第一歩である、などと言っているのを聞いたりすると、「そうなのかな」と思ったりもする。ここは一つ「昔ながらのコーヒー専門店」にでも通って、マスターと話をしながらコーヒーの色々な味を覚えてみるのも面白いではないか。
私もそろそろ人生の晩年に差し掛かってきて、「自分の時間」を大切にする年頃になってきた。一日一杯のコーヒーを「静かにゆっくりと心ゆくまで味わう」というのも、これはこれで楽しい老後だと思う。
さて、今日のコロナ新規感染者数は何人かな?、なんて考えながら飲むコーヒーの味は、格別かも・・・
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