明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(7)日々の思考は止まらない

2022-10-24 14:09:38 | 今日の話題

1、桑田佳祐のCM曲は彼のベストでは?

ちょっと前にユニクロのCMで流れていた「SMILE 〜 晴れ渡る空のように」が久々に心に響いた名曲であった。私の記憶が正しければ、桑田が咽頭のポリープかなんかを手術した頃から徐々に曲調が変化してきて、年齢もあるだろうが「とても良い曲」を連発するようになった気がする。それまでにも日本のヒットチャートを賑わし続けて来たPOPS界の大御所・レジェンドだったが、私はユーミンや尾崎や竹内まりやなどの楽曲と比べて「少しばかりBGMに寄った」曲作りに思えて、余り高い評価はしてなかった。勿論、場を盛り上げる曲というのも多少はあっても問題ないが、そればっかりでは歌手としての存在感が軽くなってしまうではないか、・・・勿論これは70代の年配者の意見である。

さて、だんだん寒さが増して来るこの季節。独り夜中にじっくり聞きたいと思う曲を書けるというのは、ある意味「音楽家の理想」ではないかと思ったりする。こんな時、しんみりとした孤独感の中に微かに希望の光が垣間見える美しいバラードなどを YouTube で見つけるのは「人生の至福の瞬間」である。この「SMILE 〜 晴れ渡る空のように」はCMで聞いた時からいい曲だなと思っていたが、今回 Spotify でプレイリストに入れ、他のCM曲も合わせて時々じっくり聞いてみた。やはりフルバージョンで流れる彼の歌声は、沈んだ気持ちを浮き立たせ、程よく心を揺さぶってくれる。最近はSY氏の影響からか、柏のカラオケ屋で懐かしの80年代フォークソングを熱唱する癖がついてしまった。こう言うと自分も昭和世代だなと実感頻りなのだが、そのレパートリーに新しく桑田佳祐が加わったわけである。何故か桑田佳祐は初秋の寒い夜、雪でも降りそうな、真っ暗な都会の夜空を見上げた時にイヤホンで聞くと、心に響くよねー。これ、都会人の楽しみ方である。

2、静けさと孤独

最近やけに夜が静かだ。特に土日の夜となれば、私の部屋にはテレビの音以外は何も聞こえない。完全な静寂・・・。まるで宇宙空間で、地球を何万光年も離れた真空の中を漂っているような感覚を覚える。今日もDVDて古いハリウッド映画を見ていたら、この瞬間「自分が独り世間からポツンと取り残され」て、すっかり忘れ去られ、二度と都会の雑踏には戻れないかも知れない、という恐怖に襲われた。勿論、映画を止めてテレビ画面にすれば、そこには深夜番組のお馴染みの顔が映っているから、まだ世間と繋がっていると分かるのだが、そうで無ければとても一人では眠れなくなりそうな異空間である。

ふと、ニュースで見る老人の孤独死現場の映像が脳裏に蘇った。狭いアパートに日用品が乱雑に置かれ、見る人もないテレビがついている傍らに、うつ向けに倒れて突っ伏した老人の体の跡のままの布団が、ポツンと映し出される。私も最期はこんな終わり方かな?って思うと、こういう時に限って無性に家族が欲しくなる。こうして見ると周りに人間がいて、歩いたりお喋りしたりしてガヤガヤ騒かしいのも良いもんだと、しみじみ思う今日此の頃です。やっぱり年を取ると人恋しくなるんですかね?

3、芦田愛菜と異次元空間

最近見た「芦田愛菜」の髪型が女らしくなった。とくに向かって左側の前髪が右側より幅が短く、長い髪が多めになって顔に掛かる部分が増え、どこかお嬢様っぽくてとても似合っている。若いって美しい!と感心していたが、それが分かるのは年をとって「もう若さを失ってしまった後」だというのは何だか寂しい。この世の最も素晴らしい生命の輝き溢れた姿を、ただ遠くから眺めるしかないというのは最大の皮肉である。神よ、私はもう人生から退場するしかないのか?・・・

いやいやそうではないだろう。我々には我々昭和世代の人生が厳として存在する。明治が45年で大正になったとしても、それで明治生まれの人がすべて「大正人」に変わるわけではないのだ。明治生まれの人には生涯「明治という時代」の息吹がはっきり刻印されて残っている。だから昭和25年生まれの私は2022年になって令和の時代になった今でも、未だに「1950年生まれ」という時代を引きずって生き続けているのである。こう考えると、世の中で共有している時間は皆同じに見えても、若者と老人では「異なる次元・空間」を生きているとも言える。

お互い、別世界の異なる次元を進む(銀河鉄道のように)列車に乗っている人間同士が、すれ違う交差点、それが「地球という星」なのだ。我々の住む家庭は、その概念上の広大無辺の空間を漂う「宇宙船」である。そして、我々から見た若い世代の人間、例えば「芦田愛菜」を見て綺麗だと思う気持ちは、要するに「別次元の人間」を見て綺麗だなと感じているのである。所詮、お互いに共有できる部分は皆無ではないが、限られているのだ。その限られている部分の一つが、「美」の感覚である。この感覚を共有しているので、モーツァルトの楽曲やベラスケスの絵画を鑑賞できるわけだ。それ以外の部分ではお互い共通することは殆どないから、結局見ているだけで「何事も起こらない」のである。これはその人がどうこういうのとは無関係で、要するに「違う時代を生きている」から、と考えたい。

で、ひとしきり芦田愛菜の愛くるしさを堪能したら、また自分の時代に戻って「自分の時代の趣味に没頭する」のである。これ、「意識や感情の話」であって、「物理的」にはお互い異なる世代同士が「共通の場所」に住んでいるのが現実だ。この共通の場所「日本」をどのようにして住みやすく、平和で楽しく美しい場所にしていくのか?というのが、我々人類のに課せられた課題であろう。

まあそれは若い世代が考えるとして、我々昭和の生き残りは「楽しくエネルギッシュに」残りの人生を謳歌しようではないか。それにしても芦田愛菜は可愛いねぇ。眼福眼福。


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