だいぶ前の事だが私の小学校からの友人でゴルフ仲間のSY氏から、ビートルズの魅力について「どう思う?」とメールが来た。NHKラジオの「ディスカバービートルズ2」という番組に俳優の安田顕が出て、自身のビートルズ愛について切々と語った言葉に「大いに共感した」らしいのである。
この番組は一昨年の頃から聞き始めて、時々二人で感想などを言い合って楽しんでいた「知る人ぞ知る名物番組」なのだ(私が勝手にそう決めつけている)。去年は「クィーン」を取り上げていて、そちらの方は余り興味が無くて聞かなかった。まあ、色々なアーティストを深堀していく企画のようで「またやらないかなぁ・・・」などとお互い残念がっていたところ、とうとう今年「2」として復活した、と言う訳である。
番組は1年間かけてビートルズの色んな側面に「焦点を当てる」をコンセプトとしていて、毎回テーマに沿って多方面からアプローチしながら「ビートルズの素晴らしさ」を語って行く。で、今回は安田顕が登場したという訳だ。
私が安田顕を知ったのは「カメラのキムラヤ」のCMが最初で、人柄は良さそうだが「なんともヒゲが濃く」てあんまりスタイリッシュな印象はなかったと記憶している。その後、浜辺美波の「アリバイ崩し承ります」で監察官役を好演したのが私の中ではブレイクだった。それ以来、そのコミカルな演技が結構面白くて注目はしていたが、まさか「ビートルズのファン代表」で登場するとは思ってもいなかったのでビックリした。
彼は73年生まれというから私とは干支2周りも違う「若者」である。当然、私たち年配の同時代人が思っているビートルズとは違った見方をするんだろうな、と思っていたら「I want to hold your hand 」を例にあげて、彼らの音楽の特徴が「どうにかなっちゃうんじゃないか」という感覚にある、と心情を述べていた。歳は離れていても音楽の捉え方は同じなんだなぁ、と感心した。当時は世界中で女の子達が興奮して失神する騒ぎが続出したが、そういう感覚は年齢に関係なく誰にでもあったと思う。お堅い言葉で言えば「陶酔」となるのだろうか、しかしイメージはどうも違うなぁ。
この「興奮と陶酔」は芸術の一つの到達点だと私は思っているが、どうも長い芸術の歴史を見ると、何となく作家が「若い時の作品」に集中しているように感じるのだ。そう言えばビートルズだって、初期の作品と中後期の作品とでは随分違った印象を受ける。これはモーツァルトでもショパンでも、或いは桑田佳祐でも変わらない「人類共通の経年変化」じゃないだろうか。そのメカニズムは何なんだろう?
私はそれは作家の頭にある「表現したいもの」が一体どういうものなのか?、によるのではないかと思っている。つまり「全く新しいもの」か、それとも今までのものの「より一段と明確なもの」か、の違いである。
世の中には芸術家と別に批評家という職業が存在する。勿論芸術家自身の中には批評的精神があって、作品を作り続けている内に段々とその批評的な目が自分の作品を含めて色々な作品を見ていくことによって成長し、表現したいものを「よりハッキリと、より大きく深く」作るようになって来るのではないだろうか。批評家は色んな作家の色んな作品を比べてあれこれ言って説明し優劣をつけるが、芸術家は自身の目的地に向かってあちこち迷いながらも徐々に近づいていく。
若い時は遠くに見えてぼんやり霞がかかっていたものが、年を経るにつれて近づいて来て「明瞭に細部まで」見えてくるのだと想像する。芸術は時代と共に「そういう流れを繰り返す」のだ。例えばミニスカートが一世を風靡した時には短いだけでカッコ良かった。しかし流行の波が一段落して目が慣れてくるとやっぱり美しく見える条件が色々と出てきて、結局似合う人だけのファッションになってしまったのと同じである。
ビートルズもまた同じ道を辿って、それぞれの道へと別れていった。ストーンズは相変わらず若い時の路線を続けているようだが、もう同じ輝きは失っている。
興奮と陶酔。これを平たく言えば、芸術における「若さ」とは何だろうか?となる。音楽の場合にはそれは一部には楽器の変化と編成の変化である。そして「音楽が演奏される場」の変化が一番大きいのではないだろうか。最初は王侯貴族の食事の添え物だったのが徐々にサロンの中心となり、その後劇場で演奏される出し物として「大衆の娯楽」に躍進した。そういう流れの中で、演奏を提供する「専門家集団」ではない、観客と同じ立場で「音楽を共有する」若者達が飛び出したのである。過去の例で言えば、建築・彫刻・絵画・演劇など、全てのプロ集団が鑑賞者の大衆化に伴って変化を余儀なくされ、見る者と作る者の「同質化現象」が起きてきた。
私はビートルズは音楽の大衆化、この場合は「大人の娯楽」だったプロの提供する娯楽から、自分たちが共感する「若者の音楽」へと変化した、その時流の中から飛出したヒーローだと感じている。その栄光のメンバーもジョンが亡くなりジョージが亡くなり、今はポールとリンゴの二人っきりになってしまった。去年は「ジョンの新曲」がリリースされて世間では盛り上がっていたようだが、何だか懐かしさが先に立ってしまい、やはり時代は元には戻らないと実感したものである。
そう言えばビートルズの名曲に登場する「あのペニーレインのバーバーショップ」が閉店してなくなってしまったそうだ。イギリスじゃ、もうビートルズも忘れ去られてあちこち様変わりしてるんだろうか?。日本人の感覚からするとビートルズの歌った床屋なんて、「大混雑の聖地」として観光客がひっきりなしにやって来ると思うのだが、まあそこで髪を切ろうとは思わないのかもね。同じく、有名すぎる「アビーロードの横断歩道」はまだあるそうだが、これも区画整理なんかであっさりなくなったりして・・・。
我々ファンからすれば「是非とも残して欲しい」と願うばかりだけど、時代の流れは記憶と共に消え去っていくものなんだろう。寂しい限りです。
結論としては芸術もまた、時代の「担い手の姿」を如実に表していると言えるのではないだろうか。そういう意味では、60年代初頭という時代は、ビートルズの初期の楽曲に見られる如く「若者が輝いていた時代」なのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます