さて前回、天武天皇の出自について色々想像してみたが、余りハッキリしたことは分からないままである。天武天皇は謎のまま、歴史を通り過ぎていった人と思う。それは天智天皇が今の皇室につながる日本国を建国したのに比べると、天武天皇の求めた九州王朝復活の目論見は、儚い夢として消えていったのではないだろうか。その九州王朝の幕を下ろしたのが他ならぬ持統天皇であるというのも皮肉であり、案外天智天皇の「深謀遠慮の策」だったかも知れない、というのは私の勝手な夢想である。今回は、そんな持統天皇の意図について、分かる範囲でもう少し調べてみようと思う。しかし、それにしても持統天皇といい天武天皇といい、余りにも実態が希薄で謎めいているではないか。この霧の彼方に薄らと浮かぶ姿を追いかけて、史料の山奥へと分け入っていき消えていく人が跡を絶たないのだ。何という謎解き、何という壮大な歴史ロマンだろうか。今回も、その影を今少し辿ってみたい。前回は、奈良に新益京(藤原京)や平城京などの大規模都市計画が次々と施工されたのには、そのベースに九州太宰府からの「678年の大地震による首都東遷」がある、と書いた。そこで時間を先に少し早めて、天武天皇の嫡男「高市皇子」が死んだ時の事を見てみたい。場所は勿論、藤原京である。
23、懐風藻の葛野王伝
この葛野王伝には、高市皇子が亡くなって「次の日嗣を立てむ」と会議した様子が描かれている。会議を主催した持統天皇は「皇太后、王公卿士を禁中に集め云々」とあり、書紀では持統が天皇位の筈なのに「皇太后」と呼ばれていたようだ(これは重要な記事である)。皇太后とは、現天皇の生母(必ずしも先代の天皇の后でなくとも可能)を敬って言う称号である。持統天皇は草壁皇子が天皇になっていれば皇太后と呼ばれてしかるべきだが、高市皇子の死で新たに日嗣を決めようとする場で皇太后と言うのでは、「まるで天皇が別にいて、その生母が持統だ」と言わんばかりである。一つの解決は、草壁皇子が天皇位についた期間が少しではあるが「あった」とみる方法である。草壁皇子が天皇で、持統が皇太后という期間があったので「それ以来」、草壁皇子が亡くなっても、持統は皇太后と呼ばれていたのだろうという解釈だ。686年に天武天皇が病気で亡くなって、持統が即位するのが689年。少なくとも天武天皇が亡くなったときに皇太子は草壁であるから、草壁が即位したと考えるのが妥当である。そして689年に草壁が亡くなると、持統が即位して、草壁の死後も政権維持に奮闘していた、と考えるのだ。その間はずっと高市皇子は太政大臣で、他に有力な後継者がいなかったわけだから、日嗣は立てられていなかったと見ることも出来る。またあるいは高市皇子が日嗣の御子、つまり天皇となっていたかも知れない。その高市皇子が696年に死んでしまったので、日嗣を立てる必要に迫られたのである。結局、葛野王の一言で文武が「皇太子=次の天皇」になった。697年即位である。これを持統天皇側のクーデターだ、と言う歴史家もある。天武天皇は壬申の乱で勝利した英雄だが、書紀を読んでゆくと「むしろ政治の面では、持統天皇の方が活躍している」とも取れる。天武天皇・高市皇子・持統天皇そして長屋王と続く皇位継承のドラマは、明らかに持統が主役である。一説によると持統天皇は鵜野讃良皇女ではなく高市皇子のことだとする歴史家(小林恵子氏)もいる。ここまで来ると、「ちょっと待ってよ!」って言いたくなる。余りにも日本書紀に書いてあることを根本から嘘だとする説には、賛同しかねるのだ。古代人はそれほど「荒唐無稽な嘘をつけるほど想像力が豊かではない」。大方の意見をまとめると、天武天皇の死後「一度は草壁が天皇」になり、689年、その死後に高市皇子が「跡を継いで天皇」になった。その高市天皇が亡くなったことを契機に「鵜野讃良元皇后が孫の文武を天皇にした」というのが妥当な所である。なぜ日本書紀は草壁天皇が即位したと書かなかったのか、という点は謎として残る。だが「天武天皇の直系長男」の草壁が死んで、「傍系男子」の高市皇子に皇位が移っては、持統系(天智系)から皇統が離れての天皇即位でようやく安寧を得たと言えよう。九州王朝の痕跡を歴史から消し去ることが、日本書紀の目的の一つである。だが何故、これほどまでに九州王朝の痕跡を消し去ろうとするのか?。鸕野讚良が大和皇統の本命「天智天皇の娘」だというだけでは、ちょっと弱い。私は、それには訳があると考えている(というか、斎藤忠の説を丸写ししただけであるが)。
24、唐の間接支配と封禅
唐は、直轄支配の旧百済には都督府を5つ、最後に攻め滅ぼした高句麗には強大な安東都護府、同盟国であるはずの新羅にも都督府をおいて、わざわざ新羅王をあてた。この占領政策を実行したのが刺史「劉仁軌」であり、時の神聖皇帝則天武后である。彼女は国とその権力者天子について並々ならぬ強い意志を持った皇帝であり、白村江の後に泰山で行われた「封禅の儀」には、女人ながら参加している程の「意識高い系」の女性であった(650〜690は皇后)。666年のこと、唐の高宗は山東省泰山で封禅を行った。白村江で大敗を喫し、上層部が唐に捕虜となっていた倭も「屈服した臣下」として招集されていた。封禅とは天命の証で、秦の始皇帝・前漢の武帝・後漢の光武帝の三人しか行っていない「王朝の一大イベント」である。天命が唐の天子にあることを天下内外に知らしめることが封禅の目的だから、その頃の唐は北狄・西戎・南蛮と支配下に服せしめ、残るは東夷だけという状況であった。そして661年、百済滅亡と新羅服属で「残りは大委国と高句麗だけ」が最後の抵抗をしていた。その宿敵大委国と白村江で激突、完膚なきまでに大委国(倭国)を打ち負かしたのである。残る高句麗も、もはや風前の灯火であることが確実になった段階で、待ちきれなかった高宗(と武則天皇后)は封禅の儀を挙行した。参加したのは敗戦の九州王朝。この時天智天皇の近江王朝は呼ばれてもいなかった。倭国九州王朝の一臣下に過ぎない天智天皇が、唐の天下支配を明らかにする場に呼ばれることはなかったのである。当然、日本書紀にその時の詳細を記す資料は存在せず、天智天皇はまだ称制のままだったことは書紀の記録が証明している。ではこのときの倭国の代表として招待されたのは誰なのかというと、665年に「是歳、小錦守君大岩等を大唐に遣わすと云々」とある。「云々」とは「などと聞く」という表現である。天智天皇は、当事者ではなかった。この時点では称制天智天皇は、まだ日本国として唐から認知されていない。そして壬申の乱が起こり、天武親政の後に草壁・高市と相次いで位を継いだ後、695年文武天皇が誕生したのだ。その後、晴れて皇帝位に就いてその絶頂にあった武則天に、「703年」日本国は粟田真人等の遣唐使を送ったのである。時の天皇は即位間もない文武天皇だ。女帝は白村江で戦った相手にも関わらず「不臣」扱いの通交国として一行を歓待した。その席での唐朝の質問に答えて「我々の王は天智天皇の孫です」と言ったと思われる(と斎藤忠は想像する)。白村江で新羅を助けた天智天皇の孫ならよいが、その子を倒した逆賊天武天皇の孫では許されなかったであろう。女系を重んじて易姓革命を成し遂げた武則天の意向にピッタリ符合する日本国の歴史には、大いに彼女も喜んだであろうことは確かだ。帰ってきた粟田真人等の報告を聞き、唐の認識に沿って書き直したのが「天智天皇の孫」文武天皇というフィクションである(斎藤忠の説であり、氏の慧眼には感服する)。実際この筋書きが一番しっくり来て、「無いこともないな」という話である。彼は天武天皇の直系の息子でもあるわけだが、母方の血統を重く見たことになる。つまり天武天皇の倭国より、天智天皇の近畿王権の血統をとったのだ。これで高市皇子を最後に倭国皇統は一応建前上は消滅したことになる。これで持統が、何故あれほどまで九州王朝を消す事に拘ったのかの謎が解けた。実態は「九州王朝の末裔」文武天皇が君臨する国だが、「表向きは天智天皇直系の大和皇統が支配する日本国」なのである。実際には父方の天武天皇の血も入っているので、天武天皇に始まって持統・文武以降、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳に至る9代8人の天皇は「倭国皇統」だ。それは日本書紀には書いてないが、公然の秘密であっただろう。京都「泉涌寺の歴代天皇の位牌」は、天智天皇の次は光仁天皇であり、「ごっそり天武系が消されている」のも「理由なしとはしない」、などと言われている(私は、これこそ天武系が大和皇統では無いという証拠だと見ている)。持統天皇が実際に王位についていたかは分からないが、九州王朝の過去を消し去るという「歴史をねじ曲げた大ウソ」をついた経緯は「それほど大それた陰謀を企てた」わけではなく、自分の子供の行末を案じる母親の気持ちと、日本国を何とか唐から認めてもらいたいという一心で作り上げた「大博打」が成功した、という事のようである。私たちは日本書紀を「歴史を改竄した稀代の悪書」などと言い立てて、作った人間を「恐ろしい陰謀家」のように思っているが実際は、その辺にいるような「普通のおばちゃん」が思いついた「ちょっとした嘘」である。ただ、それを1300年間も見抜けなかった後世の歴史家がアホだったのだ。斎藤忠、恐るべし。
ついでにオマケで、その他の話題を紹介する
25、万葉集と日本書紀の年号の不一致
万葉集の記事では持統について、すべて「朱鳥○年」の年号を使っている。が、この同じ記事を書紀では「持統○年」と差し替えている。このことから万葉集が参照しているのは原日本紀ともいうもので、それを参考にして書き直したのが今現在の日本書紀だと考えられる。では原日本紀とは何か?。それは「九州王朝の歴史書」ではないかと思われるのだ。朱鳥年号は倭国の年号である天武天皇から高市皇子に皇統が移って倭国が復活してしまったので、天武天皇の皇后であった持統は「ただの人」になったのである。当然、年号を制定する権限はなかったのだ。
26、天智天皇の血筋
草壁皇子は養育した部族が日下部氏(九州)、だから持統はずっと九州にいたと考えられる。一方、文武天皇(珂瑠皇子)は天智天皇系の元明天皇(持統の妹)が母親だが、橘三千代が乳母であり、彼女が後に藤原不比等と再婚してメキメキと政治の主役に躍り出るキッカケを作った。娘の安宿媛は聖武天皇の妻となり、光明皇后と呼ばれる事になる。藤原ファミリーである。この時点で、実は天智天皇の血統は、蘇我氏から藤原氏に移っていた!(ここまで蘇我氏が残っていたことが驚きである)。
23、懐風藻の葛野王伝
この葛野王伝には、高市皇子が亡くなって「次の日嗣を立てむ」と会議した様子が描かれている。会議を主催した持統天皇は「皇太后、王公卿士を禁中に集め云々」とあり、書紀では持統が天皇位の筈なのに「皇太后」と呼ばれていたようだ(これは重要な記事である)。皇太后とは、現天皇の生母(必ずしも先代の天皇の后でなくとも可能)を敬って言う称号である。持統天皇は草壁皇子が天皇になっていれば皇太后と呼ばれてしかるべきだが、高市皇子の死で新たに日嗣を決めようとする場で皇太后と言うのでは、「まるで天皇が別にいて、その生母が持統だ」と言わんばかりである。一つの解決は、草壁皇子が天皇位についた期間が少しではあるが「あった」とみる方法である。草壁皇子が天皇で、持統が皇太后という期間があったので「それ以来」、草壁皇子が亡くなっても、持統は皇太后と呼ばれていたのだろうという解釈だ。686年に天武天皇が病気で亡くなって、持統が即位するのが689年。少なくとも天武天皇が亡くなったときに皇太子は草壁であるから、草壁が即位したと考えるのが妥当である。そして689年に草壁が亡くなると、持統が即位して、草壁の死後も政権維持に奮闘していた、と考えるのだ。その間はずっと高市皇子は太政大臣で、他に有力な後継者がいなかったわけだから、日嗣は立てられていなかったと見ることも出来る。またあるいは高市皇子が日嗣の御子、つまり天皇となっていたかも知れない。その高市皇子が696年に死んでしまったので、日嗣を立てる必要に迫られたのである。結局、葛野王の一言で文武が「皇太子=次の天皇」になった。697年即位である。これを持統天皇側のクーデターだ、と言う歴史家もある。天武天皇は壬申の乱で勝利した英雄だが、書紀を読んでゆくと「むしろ政治の面では、持統天皇の方が活躍している」とも取れる。天武天皇・高市皇子・持統天皇そして長屋王と続く皇位継承のドラマは、明らかに持統が主役である。一説によると持統天皇は鵜野讃良皇女ではなく高市皇子のことだとする歴史家(小林恵子氏)もいる。ここまで来ると、「ちょっと待ってよ!」って言いたくなる。余りにも日本書紀に書いてあることを根本から嘘だとする説には、賛同しかねるのだ。古代人はそれほど「荒唐無稽な嘘をつけるほど想像力が豊かではない」。大方の意見をまとめると、天武天皇の死後「一度は草壁が天皇」になり、689年、その死後に高市皇子が「跡を継いで天皇」になった。その高市天皇が亡くなったことを契機に「鵜野讃良元皇后が孫の文武を天皇にした」というのが妥当な所である。なぜ日本書紀は草壁天皇が即位したと書かなかったのか、という点は謎として残る。だが「天武天皇の直系長男」の草壁が死んで、「傍系男子」の高市皇子に皇位が移っては、持統系(天智系)から皇統が離れての天皇即位でようやく安寧を得たと言えよう。九州王朝の痕跡を歴史から消し去ることが、日本書紀の目的の一つである。だが何故、これほどまでに九州王朝の痕跡を消し去ろうとするのか?。鸕野讚良が大和皇統の本命「天智天皇の娘」だというだけでは、ちょっと弱い。私は、それには訳があると考えている(というか、斎藤忠の説を丸写ししただけであるが)。
24、唐の間接支配と封禅
唐は、直轄支配の旧百済には都督府を5つ、最後に攻め滅ぼした高句麗には強大な安東都護府、同盟国であるはずの新羅にも都督府をおいて、わざわざ新羅王をあてた。この占領政策を実行したのが刺史「劉仁軌」であり、時の神聖皇帝則天武后である。彼女は国とその権力者天子について並々ならぬ強い意志を持った皇帝であり、白村江の後に泰山で行われた「封禅の儀」には、女人ながら参加している程の「意識高い系」の女性であった(650〜690は皇后)。666年のこと、唐の高宗は山東省泰山で封禅を行った。白村江で大敗を喫し、上層部が唐に捕虜となっていた倭も「屈服した臣下」として招集されていた。封禅とは天命の証で、秦の始皇帝・前漢の武帝・後漢の光武帝の三人しか行っていない「王朝の一大イベント」である。天命が唐の天子にあることを天下内外に知らしめることが封禅の目的だから、その頃の唐は北狄・西戎・南蛮と支配下に服せしめ、残るは東夷だけという状況であった。そして661年、百済滅亡と新羅服属で「残りは大委国と高句麗だけ」が最後の抵抗をしていた。その宿敵大委国と白村江で激突、完膚なきまでに大委国(倭国)を打ち負かしたのである。残る高句麗も、もはや風前の灯火であることが確実になった段階で、待ちきれなかった高宗(と武則天皇后)は封禅の儀を挙行した。参加したのは敗戦の九州王朝。この時天智天皇の近江王朝は呼ばれてもいなかった。倭国九州王朝の一臣下に過ぎない天智天皇が、唐の天下支配を明らかにする場に呼ばれることはなかったのである。当然、日本書紀にその時の詳細を記す資料は存在せず、天智天皇はまだ称制のままだったことは書紀の記録が証明している。ではこのときの倭国の代表として招待されたのは誰なのかというと、665年に「是歳、小錦守君大岩等を大唐に遣わすと云々」とある。「云々」とは「などと聞く」という表現である。天智天皇は、当事者ではなかった。この時点では称制天智天皇は、まだ日本国として唐から認知されていない。そして壬申の乱が起こり、天武親政の後に草壁・高市と相次いで位を継いだ後、695年文武天皇が誕生したのだ。その後、晴れて皇帝位に就いてその絶頂にあった武則天に、「703年」日本国は粟田真人等の遣唐使を送ったのである。時の天皇は即位間もない文武天皇だ。女帝は白村江で戦った相手にも関わらず「不臣」扱いの通交国として一行を歓待した。その席での唐朝の質問に答えて「我々の王は天智天皇の孫です」と言ったと思われる(と斎藤忠は想像する)。白村江で新羅を助けた天智天皇の孫ならよいが、その子を倒した逆賊天武天皇の孫では許されなかったであろう。女系を重んじて易姓革命を成し遂げた武則天の意向にピッタリ符合する日本国の歴史には、大いに彼女も喜んだであろうことは確かだ。帰ってきた粟田真人等の報告を聞き、唐の認識に沿って書き直したのが「天智天皇の孫」文武天皇というフィクションである(斎藤忠の説であり、氏の慧眼には感服する)。実際この筋書きが一番しっくり来て、「無いこともないな」という話である。彼は天武天皇の直系の息子でもあるわけだが、母方の血統を重く見たことになる。つまり天武天皇の倭国より、天智天皇の近畿王権の血統をとったのだ。これで高市皇子を最後に倭国皇統は一応建前上は消滅したことになる。これで持統が、何故あれほどまで九州王朝を消す事に拘ったのかの謎が解けた。実態は「九州王朝の末裔」文武天皇が君臨する国だが、「表向きは天智天皇直系の大和皇統が支配する日本国」なのである。実際には父方の天武天皇の血も入っているので、天武天皇に始まって持統・文武以降、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳に至る9代8人の天皇は「倭国皇統」だ。それは日本書紀には書いてないが、公然の秘密であっただろう。京都「泉涌寺の歴代天皇の位牌」は、天智天皇の次は光仁天皇であり、「ごっそり天武系が消されている」のも「理由なしとはしない」、などと言われている(私は、これこそ天武系が大和皇統では無いという証拠だと見ている)。持統天皇が実際に王位についていたかは分からないが、九州王朝の過去を消し去るという「歴史をねじ曲げた大ウソ」をついた経緯は「それほど大それた陰謀を企てた」わけではなく、自分の子供の行末を案じる母親の気持ちと、日本国を何とか唐から認めてもらいたいという一心で作り上げた「大博打」が成功した、という事のようである。私たちは日本書紀を「歴史を改竄した稀代の悪書」などと言い立てて、作った人間を「恐ろしい陰謀家」のように思っているが実際は、その辺にいるような「普通のおばちゃん」が思いついた「ちょっとした嘘」である。ただ、それを1300年間も見抜けなかった後世の歴史家がアホだったのだ。斎藤忠、恐るべし。
ついでにオマケで、その他の話題を紹介する
25、万葉集と日本書紀の年号の不一致
万葉集の記事では持統について、すべて「朱鳥○年」の年号を使っている。が、この同じ記事を書紀では「持統○年」と差し替えている。このことから万葉集が参照しているのは原日本紀ともいうもので、それを参考にして書き直したのが今現在の日本書紀だと考えられる。では原日本紀とは何か?。それは「九州王朝の歴史書」ではないかと思われるのだ。朱鳥年号は倭国の年号である天武天皇から高市皇子に皇統が移って倭国が復活してしまったので、天武天皇の皇后であった持統は「ただの人」になったのである。当然、年号を制定する権限はなかったのだ。
26、天智天皇の血筋
草壁皇子は養育した部族が日下部氏(九州)、だから持統はずっと九州にいたと考えられる。一方、文武天皇(珂瑠皇子)は天智天皇系の元明天皇(持統の妹)が母親だが、橘三千代が乳母であり、彼女が後に藤原不比等と再婚してメキメキと政治の主役に躍り出るキッカケを作った。娘の安宿媛は聖武天皇の妻となり、光明皇后と呼ばれる事になる。藤原ファミリーである。この時点で、実は天智天皇の血統は、蘇我氏から藤原氏に移っていた!(ここまで蘇我氏が残っていたことが驚きである)。
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