明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(14)ちょっとコーヒーでも飲みながら読む話

2020-05-28 21:09:46 | 歴史・旅行
1、法隆寺の再建論争と九州王朝
たまたまテレビで(ブラタモリだったか)法隆寺の話をやっていた。少しばかり興味があったので見てみたら、相変わらず「何年前の話?」っていう再建論争を繰り返していた。なんだかなぁ〜、という感じである。そもそも日本書紀には、法隆寺は天智天皇9年の670年に「一屋も余さず焼亡」と書いてあり、現在の建物は再建されたものと認識されているのは分かりきった話。それが何故か「非再建論者」と論争になり、すったもんだの末に昭和の発掘調査によって、改めて再建が裏付けられた経緯がある。日本最古の歴史書に書いてあることが、ようやく「正しかった」と確認されて、「現法隆寺は創建当時のものでは無い」と確定したわけだ。それが1939年若草伽藍の発掘で創建当初の建物跡が発見されて、しかも後には若草伽藍の焼けた瓦なども出てきたことにより論争に決着がついた。

では何が問題なのかというと、現存する法隆寺が再建ではなく、他所から「移築したもの」だという、これまでの歴史を「根本から転換する視点」が出て来たのである。日本の歴史学会は不思議なことに、「こと皇室に関わる話」になるとガラッと態度を豹変させ、問答無用の立場で突っぱねるという居丈高な行動に出る悪弊がある。この法隆寺の問題についても色々不明な点があるのにも関わらず、頑なに再建だと言い張っていて「移築は全く無視」しているのが現状だ。こういう学術的問題については、少なくとも両者の意見を精密に検証する必要があるにも関わらず、未だに移築の話がタブーとなっていて、話題にすら上ってこないのは不思議極まりないのである。

この問題をテレビ各局がそれぞれ諸説を取り上げて話題を広げていけば、宮内庁の凝り固まった岩盤も突破できるのではないだろうか。聖徳太子は大和政権の皇太子などではなく、九州王朝の天子だったという「驚愕の事実」も、一部の学者から指摘されているのだ。この問題は必ずや視聴者の興味をそそり、番組の視聴率が上がるのは当然のこと、学問の発展にも寄与するところが大きいと思うのだが、如何だろう。私はそういう根本的な疑問を、テレビ特番で解き明かしてくれないものかと待ち望んでいるのだが、何故だか「あたりさわりの無い」学説ばかりを放送しているのは、誠に嘆かわしい。こういう安全第一の方針は放送局の自主規制なんだろうと思っているが、なんだか「我々のものであるべき歴史」が皇室に忖度するなんて、考えるだけでゾッとするではないか。歴史をオープンにしていくことは、万世一系・天壌無窮の原理原則に抵触すると忌避するお年寄りがいるのは分かっているが、もうそろそろ若い世代にバトンタッチしても良い頃である。

話を元に戻すと、私は現法隆寺は九州太宰府の「観世音寺五重塔」を移築したものだ、という説を信じている。欽明・備達・用明と続いた天皇家は、蘇我馬子による崇峻の暗殺で推古女帝が即位した、と史書は書いているが、これがそもそもの「歴史の奥深い」闇の部分であると私は思っている。正当な天皇の崇峻が殺されたのだから、次の政権は名目はどうあれ「実体は蘇我氏の政権」に移っている筈ではないか。これは「ごくごく普通」の推理、いや論理である。それを歴史学会は何の疑問も無く、推古女帝が即位して日本史始まって以来の「女性天皇」として大和政権の黄金期を現出させた、と言ってきた。そもそも書紀は推古の即位を当然のごとくに記述しているが、普通に考えれば、備達天皇の嫡子「押坂彦人大兄皇子」か、用明天皇の嫡子「厩戸皇子つまり聖徳太子」が即位するべき状況なのだ。

推古は押坂彦人大兄皇子が即位するまでの中継ぎだと言う説もある。だが、そうならなかったのは「推古即位の実体が無い」と考えるのが正しいように思う。推古が後継者を決めずに亡くなったというのも、推古中継ぎ説が怪しい証拠である。その後には色々スッタモンダした挙げ句、押坂彦人大兄皇子の嫡子「田村皇子つまり舒明天皇」が即位している。山背大兄皇子の死によって皇位争いに決着がついたわけだが、揉めるも何も「至極順当」な話なのだ。ところが舒明の次に妻の「皇極」が立ったことで、大和政権は分裂抗争に入ってしまう。舒明には「古人大兄皇子」という皇太子がちゃんといたのに、何故か皇極が天皇位を奪取して大化の改新(乙巳の変)へとなだれ込んでゆく。どうも崇峻天皇暗殺以来の蘇我氏政権は、不安定な状況が連続していたように思える。蘇我氏独裁政権を揺るがす勢力は「何処の誰なのか」。そこに「九州政権の支配」が影響している、と私は見ている。

この話を突き詰めていけば、「1年間ぐらいかかる壮大なプロジェクト」になる位にスケールがでかい題材であるだけに、どこかのテレビ局で取り上げないものかと期待しているけど無理かなぁ。もし本気で取り上げたら「過去の歴史番組の最高視聴率」を取ること間違いなしだと思うのだが、勇気あるプロデューサーはいないもんかねぇ、ホント。

昔、法隆寺の7つの秘密とかいう本があって、その一つに、門の入り口の真ん中に柱があるのは「聖徳太子鎮魂の寺」だから、などという話がまことしやかに語られていたのを思い出す。話としてはそういう見方もあるかという程度だが、歴史を解釈する方法としては「もっと普通の理由」を先に考えるべきだと私は思う。まあ、昔々のことだから怨霊封じがどの程度信じられていたか分からないが、法隆寺の建てられている場所は「河内や山科からの交通の要衝」ということだから、当時の飛鳥にあった大和政権とは、「その機能」が異なっていたことは歴然としている。移築の証拠が続々と発見されて来た今となっては、むしろ「河内ー斑鳩の政治機能」に焦点を当てた論議が盛り上がっても良さそうである。ここは大和川が蛇行して生駒山脈を突っ切っている、「奈良の入り口」に当たる。生駒山脈は、北は八幡市の男山丘陵から交野山341m・飯盛山314m・生駒山642m・高安山487m・信貴山437mと続き、ここ大和川を境として葛城金剛山脈へとつながっていく「河内と奈良を隔てる」天然の衝立になっているのだ。この象徴的な地形が、法隆寺建立にどういう役割を果たしていたのか、実に興味深い。

とまあ、古代史探訪の次のテーマは、「蘇我氏の研究」になりそうである。推古女帝の時に行われたという「遣隋使」についても、現在いろいろな説が百花繚乱の様相を呈しているが、この「謎だらけ」の状況を文科省はどうみているのだろうか。この際勇気を出して、新たな歴史再検証に一歩踏み込んで欲しいものである。

2、信康自刃のこと
テレビで徳川信康切腹の話をやっていた。家康の命令で切腹させられた信康の母の築山殿は、元今川の娘で瀬名姫だから、人質で今川に囚われていた家康にしてみれば、信康は今川の血を引いている敵方の子供でもある。ところが信長が桶狭間の戦いで義元の首を取ったどさくさに紛れて、松平は今川を裏切り織田と同盟する。つまり家康と今川は、平和な人質生活から一転して戦争状態に入ったことになる。築山殿は信康と共に今川に残ったが、後日人質交換で家康に引き取られた。家康は嬉しさ一杯で築山殿を迎えたことになっているが、実は家康にとって「築山殿は厄介者だった」というのが伏線である。徳川の伝記物語の一つである「三河物語」にも、信康自刃の記述があるが、他の資料例えば信長公記などと食い違っている部分もあり、信康切腹は「謎が深い」というのが今回の番組のテーマである。

私は一般的な歴史の本などに従って、信康の妻・徳姫(信長の長女)が、夫と義母の罪状十二ヶ条を書き連ねた手紙を信長に送り、それを読んだ信長が「烈火のごとくに怒り」云々、という話を何の疑問もなく信じてきた。信長ならさもありなん、という訳だ。ところがこの信康切腹事件の真相は、何と「家康が考えた事」であり、信長は家康殿のやりたいようにして構わない、とお任せ状態だったという驚愕の事実が語られるのである(マジかよ?!)。こういうことは「何の遠慮もなく」、しかも検証だって中途半端なままに公共の電波で放送するのに、何で法隆寺移築の話は「秘して語らず」なんだろうか?、まあ、その話は置いておこう。

家康は武田と通じているという噂の築山殿を部下に暗殺させ、そして息子の信康を残酷にも切腹させた。これが家康の考えだとしたら、彼はどういう考えで息子を切腹させたのか?、ということになる。徳姫の手紙を信長に届けた家康の重臣・酒井忠次は、信康を責めた信長の質問に対して、一切言い訳をすること無く「事実にござりまする」とか何とか答えたらしい。既に家康家臣団は信康切腹止むなしと考えていたようで、信康は行動が残虐で評判が悪かったとも言う。当時、松平家の外交戦略について織田を取るか武田を取るか、家康と信康は反目していたという話もあるようで、この辺の真実は相変わらず「闇の中」だ。家康としても、家臣団の意向をないがしろにするわけにはいかない事情があったように見られている。まあ色々あるにしても、この松平家の未来に関わる方針で親子の意見が対立した、というのが妥当な気がする。

後の関ヶ原の戦いで秀忠が遅刻した時、「信康がいてくれたら」と家康が言ったとか言わないとか・・・。何かといえば腹を切らせていた時代のことである。備中高松城水攻めの清水宗治切腹はまだしもとしても、甥の秀次を切腹させたり千利休を切腹させたりと、秀吉も相当な悪だが「自分の長男を切腹させた家康」もイメージガタ落ちになったのは間違いが無い。それにしても織田信長という男、一時の感情で人を殺したりするような残虐で冷酷無比な人間とは全く違っていて、実は常に理知的な戦略に則って行動する「冷徹なレアリスト」であるということが改めて分かった気がする。その信長が、本能寺で「いじめを逆恨みした明智」に殺されるというのは、どう考えても「イメージに合わない」と思うのだが・・・。

まあ、後世の間違った人物像が余りに出来上がってしまって、歴史がそれに合わせて捻じ曲げられてしまうことは「よくある」ことである。弘法大師しかり、聖徳太子しかり、そして蘇我入鹿もしかりである。これがいつの日か、虚飾のベールを剥がされて、眩いばかりの真実が明らかにされますように。大体、史書に悪く描かれている人間は本当はいい人で、素晴らしい人格者と大々的に持ち上げられている人程「本当は大悪人」である、というのが私の歴史を見るスタンスである。蘇我入鹿も本当は「真面目な政治家」だった、というのが常識になる日も近いのじゃ無いかなと、遠く飛鳥の地に思いを馳せている私でした。

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