1、テラスハウスの悲劇
SNSの匿名性による被害については、これまでも多くの悲劇が起きている。全部実名で投稿しろというのは問題の解決にはならないし、人を誹謗中傷するのは止めようと言っても「本人は正義感でやっている」のが問題なので、解決するのは難しい。そこで私は、SNS上に「公開討議の場」をプロバイダー側が作り、その場以外での個別の投稿は禁止する、という提案をしてみたい。今回の事件のような場合には、話題を「個人の人格という内面」から切り離して、もっと一般的な「行動という変更可能な外面」に焦点を当てて議論をしていく、という場を提供するのである。
勿論、賛成・反対の議論で収拾がつかなくなる場合もあるとは思うが、非難する側と擁護する側がお互い感情的な発言を繰り返すのではなく、丹念に事実を検証していくことで解決に導くという「議論の仕方」を習得するのが目的である。そして結論として「本人の行動に誤りがあった」となれば、陳謝してやり直せばよい。行動が誤っている場合は、我々はその人間を正しい道に連れ戻すことが出来ると思っているし、愛することも可能である。行動はいつでも訂正できるのだ。だから刑法は「更生」を原則に成り立っている。
だが人格は内面の「人間そのもの」である。人格を「治すことは出来ない」のだ。ここにテラスハウスの悲劇があった。人には他人の人格を非難する権利は無い。人格は平等であり、良いも悪いも無いのである。非難できるのは「行動」だけなのだ。子供が社会に出る前に、まずこのことを「きちんと理解させる」のが教育なんじゃないかなぁ、と思う。これは私も含めてだが、今一度自分を振り返って考えてみる必要がある、と感じた。
だが人間は、他人の人格を非難することで「自分を相対的に優位に立たせようとする」習性がある。行動を比較するのではなく、人格を比較して恒久的にグルーピングするのである。自分達は「認められたグループにいる」という意識が、精神の安定をもたらしてくれるわけだ。少数の個人をターゲットにすることで、自分達を正当化する「魔女狩り」の意識である。これは「いじめ」の根本原理だ。今回ツィートのアカウントを削除した人々はそのことを反省し、誤った「行動」を改めてくれるといいけど、無理かなぁ・・・。
PS:まず、自分自身が「いじめ」に屈しない方法だが、自分の「本当の心の部分」を大切にして生きよう、とアドバイスしたい。何を言われても、「これは心とは関係ないんだ」と思うこと。行動は考え方、身体は個性である。そして心だけが「自分自身」なのだ。目に見えない心(=自分自身)は、他人に見える筈がない、と信じることである。誰でも本心は分からないものなのだ。本心は「本人独りだけ」のものである。その独占を人々が「お互いに許し合う」ことで、社会的信頼関係が生まれるのだと私は思っている。
「君の心は君だけのものだよ、誰にも非難する権利は無いんだ、安心して」って言ってあげたい。もう遅いけど・・・。
2、ドトールに行く日
今日昼に諮問委員会会議が行われて、夕方にも東京都の緊急事態宣言が解除される見込みだそうだが、私自身はすぐさま人混みの中に出掛けて行こうとは思ってはいない。私の友人のSN氏は、ゴルフ場でのプレー解禁とするのかどうか聞いてみたいところである。彼も慎重な人なので、国の緊急事態宣言とは関係なく、自身の判断で正しく行動するものと思っている。そもそも重症化リスクを抱えている高齢者は、当然「全員慎重」になっているだろう。高齢者はこれと言ってやるべき事があるわけでもないから、その気になれば「永久に自粛」してられるのだ。
ところが普通の人は「人恋しさ」がつのってどうにもこうにも耐えられなくなり、解除と聞けば「一気に人と接触」したくなるのが人情である。感染リスクが減っているのは事実であろう。だが、ワクチンも特効薬も無い現状では、コロナに罹ることは「癌になる」ことと同じであると言える。そう考えると、迂闊には街に出かける気持ちにはなれそうもない。ああ、どうすればいいのか。
一つの目安が「若者が多い場所」はあぶない、である。若者は軽症または無症状の人が多いという。まあ逆に言えば、老人はコロナに罹ると「殆どアウト」だから、町中に出歩いている可能性は「潜伏期間の1週間」だけであろう。ちょっと熱があっても「とんでもなく大騒ぎする」から、具合が悪い人が出歩いてる可能性は非常に低いのは確かだ。そこで喫茶店という目線で考えれば、客層が年配者中心というのも選択になる。ドトールは残念ながら、若者中心なのだ。ああ、無念!
老人が多いような店は西口駅前の「カフェうらら」だが、何となく「居心地が悪そう」なので二の足を踏んでいる。私は店員が客の気持ちを常にうかがっているようなサービス満点な店は、余り好きじゃないのだ。店員が放ったらかしで客に無関心な店のほうが、気持ちがのびのびして落ち着くのである。どうしたもんだろうか?、悩むねぇ。
結論は、まだまだ喫茶店に行くのは自粛しよう、であった。老人は臆病なのである。何もドトールに行かなくたって、コーヒーは飲める。それで Amazon かヨドバシで「コーヒーメーカー」を調べることにした。勿論ミル付きの本格的なやつである。自宅にコーヒーメーカーを持っている人は、男で35%だそうだ。これは年寄りも入れての数字だから、若い人ではもっと高い保有率になる。私もこれから一流バリスタなみのテクニックを習得して、いっぱしの「珈琲通」を目指したりするのも悪くは無い(おおっ!、やるのか?)。
私はこれも、コロナの残していった「社会変化」の一つだろうか、と思っている(ちょっと違う気もするが・・)。
3、安倍政権の支持率急降下
今日の「ひるおび」で安倍政権の支持率が30%を切った、と言っていた。安倍政権の力の源は「一にも二にも、経済」にある。その経済が安倍政権のコロナ対応の失敗で「急減速」したのだから、民心が離れるのも当たり前だと言える。コメンテイターは安倍首相の進退にはなっていない、と発言していたが、本当のところはどうだか分からないというのが真実だろう。いよいよ安倍首相も「最後の時」になるのだろうか。そもそもアベノミクスが実体のない砂上の楼閣であった訳だから、人気が落ち始めたら「あっという間に求心力がなくなる」のは当然だろう。問題は「次の首相」は誰がなるのか、だ。野党は文句ばかりで、政権を担う力はなさそうである。ここは「自分の意見をちゃんと持っている人物」となると、やっぱり「I.S.氏」しかいないよね・・・。
SNSの匿名性による被害については、これまでも多くの悲劇が起きている。全部実名で投稿しろというのは問題の解決にはならないし、人を誹謗中傷するのは止めようと言っても「本人は正義感でやっている」のが問題なので、解決するのは難しい。そこで私は、SNS上に「公開討議の場」をプロバイダー側が作り、その場以外での個別の投稿は禁止する、という提案をしてみたい。今回の事件のような場合には、話題を「個人の人格という内面」から切り離して、もっと一般的な「行動という変更可能な外面」に焦点を当てて議論をしていく、という場を提供するのである。
勿論、賛成・反対の議論で収拾がつかなくなる場合もあるとは思うが、非難する側と擁護する側がお互い感情的な発言を繰り返すのではなく、丹念に事実を検証していくことで解決に導くという「議論の仕方」を習得するのが目的である。そして結論として「本人の行動に誤りがあった」となれば、陳謝してやり直せばよい。行動が誤っている場合は、我々はその人間を正しい道に連れ戻すことが出来ると思っているし、愛することも可能である。行動はいつでも訂正できるのだ。だから刑法は「更生」を原則に成り立っている。
だが人格は内面の「人間そのもの」である。人格を「治すことは出来ない」のだ。ここにテラスハウスの悲劇があった。人には他人の人格を非難する権利は無い。人格は平等であり、良いも悪いも無いのである。非難できるのは「行動」だけなのだ。子供が社会に出る前に、まずこのことを「きちんと理解させる」のが教育なんじゃないかなぁ、と思う。これは私も含めてだが、今一度自分を振り返って考えてみる必要がある、と感じた。
だが人間は、他人の人格を非難することで「自分を相対的に優位に立たせようとする」習性がある。行動を比較するのではなく、人格を比較して恒久的にグルーピングするのである。自分達は「認められたグループにいる」という意識が、精神の安定をもたらしてくれるわけだ。少数の個人をターゲットにすることで、自分達を正当化する「魔女狩り」の意識である。これは「いじめ」の根本原理だ。今回ツィートのアカウントを削除した人々はそのことを反省し、誤った「行動」を改めてくれるといいけど、無理かなぁ・・・。
PS:まず、自分自身が「いじめ」に屈しない方法だが、自分の「本当の心の部分」を大切にして生きよう、とアドバイスしたい。何を言われても、「これは心とは関係ないんだ」と思うこと。行動は考え方、身体は個性である。そして心だけが「自分自身」なのだ。目に見えない心(=自分自身)は、他人に見える筈がない、と信じることである。誰でも本心は分からないものなのだ。本心は「本人独りだけ」のものである。その独占を人々が「お互いに許し合う」ことで、社会的信頼関係が生まれるのだと私は思っている。
「君の心は君だけのものだよ、誰にも非難する権利は無いんだ、安心して」って言ってあげたい。もう遅いけど・・・。
2、ドトールに行く日
今日昼に諮問委員会会議が行われて、夕方にも東京都の緊急事態宣言が解除される見込みだそうだが、私自身はすぐさま人混みの中に出掛けて行こうとは思ってはいない。私の友人のSN氏は、ゴルフ場でのプレー解禁とするのかどうか聞いてみたいところである。彼も慎重な人なので、国の緊急事態宣言とは関係なく、自身の判断で正しく行動するものと思っている。そもそも重症化リスクを抱えている高齢者は、当然「全員慎重」になっているだろう。高齢者はこれと言ってやるべき事があるわけでもないから、その気になれば「永久に自粛」してられるのだ。
ところが普通の人は「人恋しさ」がつのってどうにもこうにも耐えられなくなり、解除と聞けば「一気に人と接触」したくなるのが人情である。感染リスクが減っているのは事実であろう。だが、ワクチンも特効薬も無い現状では、コロナに罹ることは「癌になる」ことと同じであると言える。そう考えると、迂闊には街に出かける気持ちにはなれそうもない。ああ、どうすればいいのか。
一つの目安が「若者が多い場所」はあぶない、である。若者は軽症または無症状の人が多いという。まあ逆に言えば、老人はコロナに罹ると「殆どアウト」だから、町中に出歩いている可能性は「潜伏期間の1週間」だけであろう。ちょっと熱があっても「とんでもなく大騒ぎする」から、具合が悪い人が出歩いてる可能性は非常に低いのは確かだ。そこで喫茶店という目線で考えれば、客層が年配者中心というのも選択になる。ドトールは残念ながら、若者中心なのだ。ああ、無念!
老人が多いような店は西口駅前の「カフェうらら」だが、何となく「居心地が悪そう」なので二の足を踏んでいる。私は店員が客の気持ちを常にうかがっているようなサービス満点な店は、余り好きじゃないのだ。店員が放ったらかしで客に無関心な店のほうが、気持ちがのびのびして落ち着くのである。どうしたもんだろうか?、悩むねぇ。
結論は、まだまだ喫茶店に行くのは自粛しよう、であった。老人は臆病なのである。何もドトールに行かなくたって、コーヒーは飲める。それで Amazon かヨドバシで「コーヒーメーカー」を調べることにした。勿論ミル付きの本格的なやつである。自宅にコーヒーメーカーを持っている人は、男で35%だそうだ。これは年寄りも入れての数字だから、若い人ではもっと高い保有率になる。私もこれから一流バリスタなみのテクニックを習得して、いっぱしの「珈琲通」を目指したりするのも悪くは無い(おおっ!、やるのか?)。
私はこれも、コロナの残していった「社会変化」の一つだろうか、と思っている(ちょっと違う気もするが・・)。
3、安倍政権の支持率急降下
今日の「ひるおび」で安倍政権の支持率が30%を切った、と言っていた。安倍政権の力の源は「一にも二にも、経済」にある。その経済が安倍政権のコロナ対応の失敗で「急減速」したのだから、民心が離れるのも当たり前だと言える。コメンテイターは安倍首相の進退にはなっていない、と発言していたが、本当のところはどうだか分からないというのが真実だろう。いよいよ安倍首相も「最後の時」になるのだろうか。そもそもアベノミクスが実体のない砂上の楼閣であった訳だから、人気が落ち始めたら「あっという間に求心力がなくなる」のは当然だろう。問題は「次の首相」は誰がなるのか、だ。野党は文句ばかりで、政権を担う力はなさそうである。ここは「自分の意見をちゃんと持っている人物」となると、やっぱり「I.S.氏」しかいないよね・・・。
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