明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店番外編、とうとう邪馬臺国にまた舞い戻る

2023-12-17 01:21:00 | 歴史・旅行
1、お馴染みの短里の解説から、回り回って日本歴史学会の旧態依然とした定説を批判する
蜀では長里、呉では短里、魏では後漢時代は長里で三国時代では短里と使い分けていた(と、本は書いている)。この里程の混在が陳寿の知識不足(陳寿は蜀の人で、長里しか知らなかった)による誤解から生まれていると書いている(これも新しい知識である)。この問題は古田武彦氏の喝破したとおりで、既に決着が付いていると思ったが未だに歴史学会での定説となっていないのは、日本の学問のレベルが其の程度のものということ。私はこういう「権威」というものに全く価値を置かない人間だから、多分「何かと実力以外で市民を圧迫しようとする体制側」からは、社会の底辺のそのまた外に弾かれてしまうんだろうな、と漠然と考えた。では、権威の代わりに何を信じるのか。権威を重んじる人は、その権威を利用すれば結果的に自分の利益になると思っている。皆んな結局は自分に還元するのだ。私は権威を利用するのではなく、その説を正しいと感じた時に「利益を得た」と思う人間だ。これは、知識という財産が増えたと言う考えである。歴史学会の権威と言われる人も最初は歴史知識を得ることを目的としていたのだろうが、途中で他人の称賛が心地よくなり、社会的地位と経済的利益がセットになって、だんだん元々のピュアな研究から「ただのヒエラルキーの拡大保存者」と化してしまう。そういう連中に付き従っている人々、例えば茶道・華道・舞踊・その他何でも同じだが、自分よりも「自分以外の判断力を信じる」ようになったらもう「人生、終わり」である。私が老後何の楽しみもなく生きているのは「自分の判断力に絶対の信頼を置いているから」だ。何が正しくて何が間違っているか、すべては「私自身の判断力」にかかっている。歴史問題というのは、最もこの判断力が試される場所なのだ。私はそう思って戦いを挑んできたし、これからもその判断力を頼りに生きていくつもりである。その判断力で、素人ながら日本歴史学会の重鎮達を薙ぎ倒し、打ち負かすことが可能なのが歴史という分野である。しかもほんの少しの本代で、と言うのだから「やめられない」ではないか。これ以上お手軽で安上がりな趣味はないのではないかと思っている。勿論自分勝手にはであるが、「それが許されるのが特に古代史」である。だから特別勉強していない市井の人が「とんでもない理論を展開する」ということが、まま有り得るのだ。とりわけ邪馬台国には、それが多い。・・・というわけで、古代史好きには堪らないテーマである邪馬臺国に再び挑戦となった。私にとっては今年一年の「どっぷり読書に浸る」に相応しいスタートである。ちなみに大昔は倭人が朝鮮半島南部にいた、という事実に韓国人が気づかないふりをしていることには、改めて「バッカじゃないの?」と思っている(これ、蛇足でした)。まあ、短里使用は確定でしょう。

2、志賀島の金印にある「委奴国」の読み方
「奴」は「ぬ」と読み、形容詞が名詞の後に来る文法で、「奴」は「大きい」意味だと言う。よって委奴国は「大委国の意味」であるというのが私の現在の理解だ。つまり「ゐ」というのがこの地域の王国が「自称している国名」だ。いわば日本を「大日本」というようなものであろう。今も昔も日本人の感覚に変わりはない、という証拠でもある(日本人は何でも偉そうな名前を好むようだ、勿論アメリカ人もそうである)。この大委国は、邪馬臺国とは別の国であり、歴史に出てくる「後の北九州政権」の前身である(と、私は考えている)。倭国大乱といわれる内乱を調停したのが邪馬臺国であるが、卑弥呼の死後また乱になり、臺與が立ったと史書にあるがその後どうなったかは不明なのだ。だから私は邪馬臺国は、一時的に歴史の中に登場したが、しばらくして表舞台から消えた国と考えている。でなければ、こんなに話題になっているのに、場所が分からないなどということは有り得ない。貴族政治が爛熟を極め、その荘園制度が弊害をもたらすようになって平氏にその座を奪われ栄華を謳歌したのも束の間、あっという間に源氏という反対勢力との争いで破れて壇ノ浦のつゆと消えたのが鎌倉時代の始まりだった。だが、その頃には実力のみを争う武士の世が近づいていた、という大きな流れで括ることが出来るのが中世である。この流れを古代史にも当てはめれば、邪馬臺国という権威は、しまいには武力を結集した勢力に再び取って代わられて、多分、委奴国あるいは有力地域の後継勢力に「吸収・合併」されたのだと思っている。これからは想像だが、一案として、邪馬臺国の首都は以前私が信じていた「熊本」近辺で、委奴国の首都が「佐賀吉野ケ里」という考えも頭に浮かぶ。さらに、もともと委奴国の本拠地は北部九州にあったが、段々と内陸に移動し、最終的には「太宰府」に落ち着いたという考えも説得力が有りそうだ。或いは逆に佐賀市近辺が邪馬臺国という考えも大いに有り得るし、「投馬国」が熊本という考えも十分あると思うが、いまだ「決定打が出ない」こと議論が終わらない一因であるし、また「面白さ」にもなっている。結局何でも有り、である。一応、漢委奴国王金印の発見は、志賀島辺りから北九州一帯を委奴国と見なす超有力な第一級史料であるが、場所が志賀島という「歴史遺物が何もない所」だというのが如何にも謎めいている。これ、ツタンカーメンの呪い的な匂いも感じられて、歴史ファンの興味を嫌が上でも引いちゃう話題ではある。だが私は「金印授与の事実」は信じるが、実際に発見された「金印自体」には興味はないので、この話題はこれまで。

3、豊前国風土記
豊前国風土記に天孫降臨の話があり、豊前国京都郡は恐らく「天孫の神京」とある。豊前国は今の福岡県で、小倉と行橋の中間辺りの海沿いにある。アマテラスが居た都で、ニニギノミコトは此処から天孫降臨した。つまり高天原は宮崎県ではなくて豊前国だというわけだが、この説が高天原論争には発展していないのは奇怪ではないかと思う。どこにあるかは別として、出雲王朝に国譲りさせる勢力としては、有明海の八代や熊本より小倉や福岡の方が現実味があるような気がする。多分、「京都郡」という地名は風土記の時代にあった名前だろうから、3世紀の卑弥呼の時代に都があったとは一概に言えないが、倭国が拡大・拡張して国内的にも日本全体を統一していく過程では、太宰府・小郡・浮羽・日田・湯布そして別府へ至る古代史の重要ルートに沿って征服していっただろうから、部族の出発点としての「天孫の神京」と考えれば、支配地域の範囲もグッと重みを増してくる。これは全くの想像だが、京都郡で産声を上げた勢力が博多湾に進出して朝鮮・中国との交易を独占し、後漢光武帝から金印を貰い、博多湾岸から鳥栖・佐賀一帯に広がる一大王国を築いていた。その出発地・故郷が豊前国京都郡だ、というのは十分に有り得る。それが内紛による争いで混乱する中、たまたま卑弥呼の邪馬臺国を宗主と仰いで難をしのいだ、というのが真相ではないか(と思う)。邪馬臺国の卑弥呼を一時的に「権威」として利用したとも言える。権威を利用するとは、自分では重要だと思っては居ないが、言うことを聞かせたい一般大衆が崇め敬っているものを「象徴的にトップに持っていく」ことで、間接的に大衆をコントロールする、みたいなやり方である。これは陸軍が天皇を利用した構図と同じだ。実力のない権威は、「常に誰かによって利用される」と言うのが歴史から学ぶ教訓であるが、日本人は天皇代替わりで恩赦がどうのこうのと浮かれていて、ちっともこの教訓を活かせていないのは実に恥ずかしい限りである。ちょっと脱線した。とにかく「権威は利用される」と言うのは、これ歴史の定説である。とにかく豊前国京都郡というのは、日本における首都東京に対する「奈良」みたいなものかも。京都は江戸時代まで首都だったから、ちょっと新しすぎるので。

4、邪馬臺国と邪馬壹国はどっちが正しい?
古田武彦教授が指摘して以来長いこと「実は邪馬壹国だった」というのが一部のファンの間では「決まり」になっていたのだが、この不毛に見えた論争に終止符を打つ事実が発見されていたとは驚きである。この本が出たのは2015年だが、昭和50年に既に薮田嘉一郎氏の論文が発表されていたので、早くから決着は着いていたようだ。それは、陳寿は「邪馬臺国」と書いていたのだが南宋の時代に朱子学が広まり、尊王思想の意識が盛んになるにつれ、その理論から君臣序列を重んじる考え方が「臺を壹に書き改め」させた(らしい)。そうなると卑弥呼の娘の壹與(いよ)も「臺與(とよ)」になる。私は、これは古田武彦教授の勇み足と思った。現代に残る中国の多くの史書が邪馬臺国と書いているので、むしろ邪馬壹国と書く史書のほうが少ないと知ったのは収穫である。ご参考までに。さすがの古田先生も間違えるんだねぇ、猿も木から落ちるだ。

5、桃の種が出たから何だって言うわけ?
近畿説は邪馬臺国を里程などの数字から考えず、箸墓などを「直感的にそうだと決めつけて」展開する癖があるが、近年は桃の種などの発見で俄然勢いづいていると聞いている。この近畿説、ロマンあふれる幻想で話は面白いとは思うが、マジ「バカバカしくて話をする気にもならない駄論」であると私は思っていて、未だにマスコミを始めこれを信じている連中が多いのには閉口すると言うか、驚かざるを得ない。第一、卑弥呼の墓は円墳なのに箸墓は前方後円墳で、全然形も大きさも違うのだから「噴飯もの」としか言いようがないではないか。第二に、近畿にある邪馬臺国の卑弥呼に会いに行くのに、九州あたりで上陸してあちこち巡って投馬国何万戸などと書いているのに、瀬戸内海の有力な国には一切寄らないで、いきなり女王国に行くっていうのはどう考えても「おかしく」ないか?、っつう話。第三に、陳寿は書き間違いが多くて「東を南と書き間違えた」とするに至っては、これを主張している近畿説自体「認知症を疑う」レベルの話だ。日本が南北に伸びている古代の地図を引き合いに出して、「当時の中国人の理解はこんなもの」と言っている人も一部にはいるみたいだが、これは実際に日本に上陸して倭人の事を書いている人間の話だ、ということを忘れてもらっては困る。要するに、これを「変だと思わない人」とはもう、一切話をするべきではないと断じる。つまり近畿説を信奉する人は何かのイデオロギーを主張する人であり、初めっから「歴史家」ではないのだ。これにマスコミが騒いで話題にし、論争が続いているように見えているだけである。もう結論は出ているのだから、いい加減に学会が裁定を下すべきであろう。勿論裁定は公開で「完全に論理的」に行い、現時点での史料と発掘遺物とそれらから類推される事象のみを証拠として採用し、奈良・平安時代以降の出来事は一切無効とする姿勢で「白黒はっきり」させるのだ。そうすれば、当時(紀元3世紀)の箸墓を中心とする奈良全体の考古学的発掘調査による史料が、何れも「北九州で発見された遺物とは、比べるべくもない」ことがアッサリと結論付けられるであろう。これで新しく北九州より質・量ともに有効な発見が奈良近辺から出るまでは、あのクダラナイ邪馬臺国近畿説などという駄論を「完膚なきままに」葬り去ることが出来るのである。当然、「桃の種」などは最初から問題にもならない「些末なこと」で、もはやニュースにもならないのである。こんな「どうでもいいこと」で鬼の首を取った如く騒ぎ立てるところに「近畿説の破綻」が見えているではないか。まあ桃の種なんて「歴史と関係ない」ものを出してきた時点で「あほちゃうかぁ」だけどね。

6、高柴昭という著者は結局は、倭人伝に東南・南と書いてあるのに、結局「東」に道を辿って邪馬臺国に行き着いているところがダメである
邪馬台国の位置については、方角が倭人伝の記述通りではないので「またか」と思ってガッカリしてしまった。この著者の最大の欠点(それは今までの邪馬台国論のすべてに言えることだが)は、まず最初に目的地が頭に浮かんでいて、それから記述を読み解くという姿勢にある(本人も著書の中で言っているのだが)。まず伊都国を糸島地方に比定したあと、途中の記述と合わない部分をいろいろ理由をつけて方向を曲げて目的地に到達している点で、理論破綻である。まず最初に道が東南の方角に行ったとしても、「目的地」が北の方角にある国のことを「東南500里」とは言わないのではないか。そんなことは魏使でなくても古今の常識だろう。魏使は方角も分からない連中だとでも言うのだろうか。これでは著者の理論には、根本的に賛同するわけには行かない。結果として、邪馬臺国は北九州の須玖岡本遺跡ということになっているようだが、この「伊都国が糸島地方」という時点で、私はこの本を信用しなくなっていた。伊都国が糸島地方であるなら、魏使使節団の船は最初っから博多湾岸に向かうであろう。わざわざ末廬国などの険しい道を苦労して500里も歩く理由がない。まあ私の考えでは、伊都国は糸島とは無関係であろう。これ、意外と重要な点だと思うが、「伊都=糸島のイト」と信じて疑わない人が、歴史を愛する人の中に大勢いることにガッカリする。奴国も「儺の縣」という後世の呼び名をあてはめて奴国=ヌコクとして疑わないのも不思議だ。実は奴国というのは倭人伝にはもう一国あり、記述の中に出てくる21国の最後に出てくるし、他に8国(狗奴国も含めて)も名前に奴と言う字が使われているポピュラーな国名である。奴は委奴国で説明したように、「大きい」という形容詞を字に表したものでもあるのだ。それで「大國」で思い出すのは島根県出雲市を昔は大国と呼んでいた、という話である。つまりその首長が「オオクニヌシのミコト」という。これでは委奴国が出雲市になってしまうので何とも言えないが、何れにしても福岡湾岸地方が弥生遺跡の一大宝庫なのは間違いないから、倭人伝に言う所の「末盧国ー伊都国ー奴国ー不彌国ー邪馬臺国ライン」とは別の地域で、本来の「倭国=委奴国」に違いないと私は思う。まあ歴史的には、邪馬臺国の方が「一時的」である。

6、王墓はどこ?
ついでにこの本の著者が考える卑弥呼の墓について触れておくと、吉武高木遺跡(早良)、須玖岡本遺跡(春日)、三雲南小路遺跡(糸島)、井原鑓溝遺跡(糸島)、平原遺跡(糸島)、の5つが候補にあがっていある。この中で、吉武高木遺跡は時代が古いから除外するとして、平原遺跡を臺與の墓、井原鑓水遺跡を倭国王帥升の墓、三雲南小路遺跡を金印を贈られた王の墓、と考えて残る須玖岡本遺跡が「求めている卑弥呼の墓」だと筆者は考えているようだ。この須玖岡本遺跡を含んだ春日丘陵は大昔「山」と呼ばれていた、との伝承があって、地名にも「筑紫郡春日村大字須玖中字岡本小字山」とある。山、すなわち女王の都「邪馬」という訳だ。これにて1件落着!、と言いたいようだが、先程言った21国にももう一つ「邪馬国」というのがあるから、こちらも候補に入れないと論証したとは言えない。何れにしろ、掘ってみなければわからないが、骨に卑弥呼と書いてあるわけでなし、卑弥呼の墓自体が歴史的にどれほど価値があるかと言えば、本能寺の変で自害した信長の遺体が見つからない話と同じで、それほど大事なこととは思えない。まあ、観光名所には格好の話題だが、この付近には由緒が不明の古い神社「熊野神社」があって、もう一つの金印、卑弥呼の貰った「親魏倭王印」が眠っているんじゃないか、と筆者は想像する。両方出て来たら日本国中が一気に邪馬臺国ブームで大フィーバーしそうだが、ちょっとそこまで望むのは欲が深すぎるだろう。ここまで来ると「宇宙人の出てくる」ミステリーロマンの世界である。

7、邪馬臺国と全体の位置関係
さて、魏志倭人伝の行程記事には「南、邪馬臺国に至る、女王の都する所。水行10日・陸行1月。・・・女王国より以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。」とある。実は、南に行ったあげくに「女王国以北」って、どういう意味?、と悩んだ。この以北の国々については15国の名前をあげていて、特に一大率を伊都国に置いているという。一大率は以北の多数の国を監察しているのだから、以北の国々にほぼ接しているか近い位置関係だろうと思うのが自然ではないだろうか。伊都国は行程記事から想定すると、倭国の北西の玄関口である。そこから東南ー南ー東と行って邪馬臺国に至る。同時に、「東、海を渡る、また倭種なり」とも書いてあるのだ。邪馬臺国は東を海に接しているのか?、という疑問が出てくる。この記述から見ると、邪馬臺国の東は海岸近くにあり、東岸に近くなければならない。果たして邪馬台国はどこにあるのか?

結論:ここまで書いて、もう少し精密に行程を検証する必要があると思った。
A国からB国へ何里と書いているのは其の国の国境までではなく「都市から次の都市まで」と解釈すれば(〇〇国に至ると書いているから、国境を越えたと取るのは深読みし過ぎだろう)、末廬国から東南500里で伊都国に至ると書いてあるので、伊都国の首都までが500里である。末廬国は山際の狭い国土と想定される海人中心の国であるから、より文化的にも先進的な洗練された伊都国の首都は「内陸部奥深く」に築かれていて、国境自体は「意外と海岸線から近い」と解釈することが可能であろう。だから末廬国に上陸してすぐ伊都国領土を通過し、500里を陸行して伊都国の首都に入ったわけである。その東南100里に奴国の首都があり、奴国は伊都国の首都から「ほど近いところ」に自国の首都を設けていることになる。さらに東に不彌国があると書いてあるが、これは「広大な奴国の領土(2万戸とある)を通過して100里という位置関係を見れば、これら三国の首都はお互いに100里という距離で集中していることになる。このような地域を唐津から東南で探すということになれば、もう筑後川有明海沿岸地域の人口密集地帯しかないではないか。つまり伊都国は南北に広がっていて、その南は「海に面している」かもしくは海に近いことになる。そして邪馬臺国は奴国を通過してさらに100里東にある不彌国から見て「南にある」はずであるから、唐津から35ー40kmの「小城」辺りを伊都国の中心と考え、さらに奴国を佐賀から南に筑後・八女・みやまと続く広大な地域を支配下に置く大国と想定した。その結果、不彌国は「神埼」あたりにある小国が比定され、不彌国と接している「久留米」こそが邪馬臺国の本拠地、つまり「女王の都する所」である、と結論が出た。素晴らしい。そのさらに南には熊本にあったと考えられる投馬国があるが、魏使は投馬国には行ってないと私は思う。

邪馬臺国は魏志倭人伝の行程記事を素直に辿れば、久留米だ。そして北に向かうと鳥栖・筑紫野・太宰府を経て多数の弥生遺跡が立並ぶ黄金の博多湾岸が目の前にある。ここに後漢光武帝から金印を貰った委奴国があったのはほぼ間違いがない。委奴国は内乱を収拾するために南方の邪馬臺国を担いだに過ぎない。あくまで倭国の王者は「委奴国」、というのは動かないのである。中国のその後の歴史書も、委奴国が倒されて邪馬臺国が易姓革命で倭国のトップになった、とは書いていない。倭国王帥升や難升米等いろいろと名前が登場するが、あくまで卑弥呼が一時的に倭国王になっただけで、「倭国の宗主国」が邪馬臺国ではないのである。それは邪馬臺国を「女王国」と呼んでいて、「女王が都する所」と言っていることから想像するのだが、倭国=女王国ではないのではないか 。それは京都を「天皇が都する所」であるとしながら、天下を支配するのは「江戸幕府」である、というのに似ている。ただ、この地域は相当な人口があったのは確かであるから、邪馬台国7万戸という記述には合致する。久留米から北に向かったあと筑紫野から東に進路を取れば、飯塚・田川・行橋・苅田を経て京都郡に出られるし、また鳥栖から東に行けば小郡・朝倉・浮羽・日田を通り、玖珠・湯布院・由布を経て大分に至る。こうなれば宇佐に向かうも簡単であるから、古代の交通の要衝であるのは間違いない。邪馬台国の女王が群小諸国の尊宗を受けていたというのも、あながち誇大な表現でもないと言えそうだ。

私は邪馬臺国の場所を考えるにあたって、まず魏使倭人伝を信用して改定なしに読む姿勢を良しとする。今回採用した新しい視点は「〇〇から何里✕✕に至る」という記述を、〇〇、✕✕という都市と解釈したことである。当時の村落の集積状況を考えれば、国と国との国境がハッキリしていると考えるほうがおかしい。やはり点で考えるべきだろう。よって邪馬臺国と呼ぶ時にはいくつかの集落が点々としていて、現在の東京から神奈川まで連綿と家が連なっている状況とは「まるで別世界」だと思わなければいけない。多分、邪馬臺国の首都といっても「千人余の集落」なのではないか、それでも相当な数である。人数で言えば、博多湾岸の穀倉地帯のほうがもっと多かったろう。遺跡の量や質をくらべても圧倒的に上である。

ここまで考えて、ハタと気が付いた。そこで大きく視点を変えて、「始めっから倭人伝を見直す」のも良いかも知れないと思い始めたのである。それは、一大国と書いてある「壱岐」から唐津近辺の末廬国=松浦地方に上陸、というのを一度「止めて」、普通に考えれば当然ここに向かうよねという「博多港」を「末廬国」と考えてみたらどうだろう。そうすれば伊都国は、後々まで九州の遠の朝廷と呼ばれた「太宰府」になるではないか。おおっ!

これは案外「当たっているんじゃあないの?」的な感覚が、ふつふつと湧き上がって来たのである。

とまあ、又しても脱線したが、この末廬国=博多港という仮説、私はすごく気にいっている。この説が上手く行かないのは「名前が全然違う」というだけで、他の点はバッチリ合うのだ。行路記事だって何とかなる。何とかして博多で「まつろ」という地名がでないかな?。

結局私も邪馬台国の場所を北九州に持っていきたいのだ、と批判されそうである。だけどこのアイディア、魅力的だけどねぇ・・・


最新の画像もっと見る

コメントを投稿