明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の引っ越し履歴(8)狛江の慈恵医大付属病院 ③ 入院生活の日々(その1)

2022-03-12 16:39:03 | 今日の話題

1、狛江慈恵医大付属病院の6人部屋に担ぎ込まれる

① 嚥下障害で無言生活
入院当初は検査などでアタフタしたが、とにかく先生方の仰る通りの「まな板の鯉」状態だった。脳梗塞は他の病気と違って別にどこが痛いと言うわけではないので、精神状態は「至って呑気」である。生来責任感のない性格だからか、「会社がどうなるのか」という心配は一切感じなかった。言うならば、「私が終わったと言うことは、会社も終わったと言うことだ」ぐらいに考えていたのだから恐ろしい(なんという自己中心的性格!しかし病気に対しては、それが案外良かったのかも)。唯一の自覚症状は「喋れない」ことだった。発症直後から呂律が回らなくなっていたのだが、翌日にはもう「全く喋れない状態」になっていて、それで病院のスタッフに何かを伝えたい時には、紙に書かれた「50音表」を一文字ずつ指で指し示して伝えていた。「耳は聞こえていた」ので、何とかなったのである。

今から思えば「タブレットにメモ書き」したほうが何倍も便利だったと思うが、まさか自分が喋れなくなるとは思ってもいなかったから、言葉を伝える方法なんて考えてもいなかったのである。今ならアイパッドに文字を入力して、相手に見せるのがベストだ(当然、もうやっている病院があるだろう)。まあ大きな病院なら、脳梗塞入院患者に一台ずつ貸与して医療に役立てる、と言うのは「十分アリ」だと思う。とにかく私は一日中ずっと「この50音表」を肌身離さず持ち歩いて、一時期コミュニケーションの必須アイテムにしていた(お洒落だとも言える・・・これ自虐ネタです)。見た目にはとても不自由だと思うかもしれないが、別に何か話したいことがあるわけじゃないので十分である。私はこんな身体になった自分をあっさりと受け入れて、割と「のほほん」と生きていた。だって、なっちゃったものはしょうがないじゃないですか、って感じだったろうか。私は全て過ぎ去ったことについては、あれこれお考えない性格なのだ。大事なのは「いま」をどう生きるか、である。『諦め」は良い方だった。

② 点滴に繋がれたまま
最初の何日かはずっと点滴に繋がれたままだった(と思うが記憶が曖昧である)。とにかく絶対安静だから寝っぱなしである。トイレも風呂も行かずに、ベッドで寝たきりで過ごした。薬を飲む時だけ起き上がったが、「ちゃんと飲めるのねぇ」と看護師さんに言われたのを覚えている。子供じゃ無いんだからと思ったが、大抵の脳梗塞患者は飲み込めなくて苦労するらしい。私は多分、症状が軽い方だったようである。絶対安静の間ベッドから離れられないので、尿は尿道にチューブを差し込んで、膀胱から直接バッグに排出していた。これは実に便利である。チューブを取り替える時など、若い看護師さんが処置してくれることもあったが、もう「言われるがまま」で何の反応もない。まあ若い患者なら色々と考えただろうが、私はとっくに「なすがまま」の受け身だった。どちらかと言えば、私は大人しくて扱い易い患者だったと思う。

点滴をしていたので固形物が身体に入っていないため大便は出なかったが、それでも何日か後に「突然ブリブリっと大量の大便」が出て、ベッドを汚したことがあった。後始末をした看護師さんから「散々に怒られた」が、私は「しばらく振りの排便の快感」に満足していた。それで確か私は、「他人事みたい」にシラッとしていて全然謝らなかったと記憶している。こう言う時は「喋れない」というのは楽である。ただ、謝らなかったことが「喋れなかったせい」じゃ無いことははっきりしているので、私の性格の悪いところが出たようには感じた。どちらかと言えば事実は事実として認め、二度としないように注意するという態度だろうか。思えば「腹立つ患者」である。

そうこうしているうちに点滴が外れてベッドからトイレまで自力で行けるようになってからは、もう看護師さんの手を煩わすことは殆ど無くなった。風呂は週に2回、最初のうちは転倒防止のため入浴中に看護師さんが見守りでついてくれていたが、それも途中からはほとんど無くなった。朝6時に起床、体温を測ってそれから朝食を摂る。廊下に貼ってあるリハビリのスケジュール表を確認した後は、何もする事はなくてテレビを見るだけの毎日が続いた。ちなみにこのテレビは「有料」だったのだ!(ケチな病院!)。テレビしか楽しみが無いのに、それを有料で観させるなんて余りにも患者を「もの」として扱っているではないか。「医療」と言う考え方が如何にも大病院らしくって腹立たしい。


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