日本の古代史を勉強するようになって早20数年がたった。最初は奈良の地名が日本書紀の書くままに残っていることに驚き、会社の出張の折に旅しては、あちこちの遺跡を訪ねたりして歴史の息吹に触れる機会を増やしてきた。中臣鎌足が産湯を使った場所であるとか、竹内峠をひたすらテクテク歩いて越えたりして、奈良という土地に愛着がどんどん深くなってついに移住しようと決心したのが5、6年前である。それほど古代が手付かずに残っているということに、とてつも無い魅力を感じていたのだった。それが色々な史書を読み漁るうち、いつの間にか古田武彦先生の九州王朝論に傾倒するようになり、今ではあれほど古代の魅力に溢れた奈良の古地名も、そのほとんどが九州地方からの移住による転写だとわかり、私自身の興味が急速に薄れてゆくの止めることができなくなってしまった。大和地方に日本列島を支配する強大な王朝があり、天孫降臨以来連綿と続く天皇家が、輝かしい統治を続けて今に至っている、・・・という定説・・・が、全く史実を反映していないことに遅ればせながら愕然としたのである。端的に言えば、何でこんなに「日本人は嘘をつく」んだろう?、って思いだった。
これは現在に置き換えると、国会で連日のように繰り返されていた答弁に見られる「嘘と誤魔化し」と根は同じであり「責任回避・隠蔽」のオンパレードである。私は古代史を研究する間、性質が温和で礼儀正しく道徳を守る美しい民族と世界中から賞賛されている日本人が、何故これほどまでに嘘と偽りで塗り固められた精神の恥部をさらけ出すのか、それに「ずっと疑問を持ち」続けてきたような気がする。そして最近、ようやく「これなのかな?」というようなヒントが見つかった気がして来た。それは「自分達を取り巻く環境に執着する精神」である。
稲を耕す田畠と山林と海川の恵みに囲まれた日本という環境は、多くの人々の生活を豊かに育んでくれた。この自然の環境を後生大事に守っていくことが人々の最大の関心事だということは理解できる。何よりもまず自然が豊かであり、その力によって人々が生かされている、というのが日本人の性格の根底にあると思う。勿論、自然はいいことばかりでは無い。時には干魃・洪水・冷害などで大打撃を被る時もある。災害に打ちのめされボロボロになりながらも復興しては、また拡張していく苦難の生活の連続だ。そこには自ずと自然と共生し、自然に生かされている人間の忍耐強い生活が芽生えてくると思うのである。自然と戦うのではなく、人と人とが争うのでもなく、人々が共に協力し合って自然と共生する社会。これが日本人の原点である。人々の心は自然災害の苦難を乗り越えるため協力し合うことによって、実は人々は「幸せを共有」する社会を作り上げてきた。それこそが本来の伝統的な田舎の生活であり、「日本人の精神構造を形作ってきたもの」なのである。いわば「大自然の恵みの中にある」生活だと言える。勿論のこと日本は島国だ。狭い国土に多数の人間が暮らしていくためには、この方法が一番いいのである。土地土地の食物を食べ尽くして、その度に他の土地に移ると言う狩猟採集の生活は、もしかすると日本人には向かなかったと思われる。それは雄大な自然がまばらではあるが、豊富に存在する大陸の民族には向いているかもしれない。日本人は狭い国土に住み着いて、何とかそれを維持し開発に専心して来た。
さて、ここから何が導き出されるだろうか。私は日本人は自然を唯一無二の存在と考え、それから派生して「種族・氏族や親族あるいは家族」といった集団の利益を「第一」と考える習慣が完成した、と思う。そしてそれに対立する概念である「個人」は、無視され打ち捨てられた。これが日本人の真実である。これが古代の歴史においても繰り返されたのであろう。日本書紀が事実ではない嘘八百の出鱈目を書いて、古今始まって以来の「歴史改変の大悪業」をしたように糾弾するものがいるが、私は彼らに悪気があったわけではないと思っている。ただ日本書紀を編纂した役人も責任者の不比等やそれを嘉納された元正天皇も、「こうあって欲しい」または「こうあるべきだ」と思っていることと、「こうだったに違いない」ということの間で揺れ動いた結果だったのではないか。それが日本人が「嘘をつく」本当の目的であり、氏族や親族・家族を守るために「無意識のうちに取った行動」であると、今では思う。明かな虚偽答弁で有名になった佐川理財局長も、詰まるところ安倍元首相を守るために国民を欺いたわけである。何ともやり切れない集団の論理であるが、これが日本人のメンタリティであり、実は「大多数の国民」も暗黙のうちに了解している事なのだ(それは選挙の結果が証明している)。嘘をつくのは悪い事だと個人レベルでは分かっている。だがその嘘が母集団を守るためという「明確な目的」があった場合は、その行為は「許される」と思っている。これは日本国民の、言わば長年の「コンセンサス」である。表に現れた嘘や隠蔽が対立する人々から散々に追及されていても、根底に隠された「本当の目的」が白日の元に晒されることは決してないだろう。それと同じ「背に腹は変えられない」という気持ちが、日本書紀編纂過程にも多く発揮されたのである。それが、日本書紀に書かれていることと違う事実が「これ程までに沢山指摘されている」のにも関わらず、それを認めようとしない人々が大勢いるのか?、ということへの私の答えである。
真実は表に現れたことよりもっと別のところに存在する。
これが日本人の「歴史に対する認識」であり、国民の気持ちに染み込んだ「日本という国」への変わらぬ態度なのだ。曰く、太古より現在まで続く万世一系の天皇家が徳で治める偉大な国、と言う日本書紀の理念と同一の感情である。誠に心地よい響きのする言葉ではないか。だが、それは全く事実ではない。・・・そういう間違いに対して異議を唱える人々が、「古田武彦先生の登場以来」今も陸続として発生し続けていることに私は一つも驚かないのである。私はこの真実解明運動が広く日本人に受け入れられる日が来るとは思っていないが、少なくとも「間違ったことを間違っているとする」当たり前の判断を大事にしたいのだ。例えそれが「日本という国の認識を根底から覆す考え方」であったとしても、古田先生流にいうならば「真実の前に目を瞑るわけにはいかない」、のである(まあ、ちょっとカッコつけ過ぎだが)。結局私は根っからの「個人主義」で、この世にある事は「理屈こそ全て」という姿勢で歴史を研究している。しかしそうでない考え方は今でも一般に広く信じられており、これは歴史に限らず、全てのことで「厳然(唖然)としてある事実」なのだ。特に高齢者や田舎の人にそういう傾向がある。
というわけで前置きが長くなったが、この斎藤忠さんの著書が「えらくピンポイントに」私の疑問を解き明かしてくれている、ということを言いたいのである。そこで今シリーズでは本の中で「やっぱり、こういうことだよね?」ということであったり「おおっ、これは初めて聞いた!」という斬新な記事を、感想を交えて紹介していこうと思う。前回、一条このみ氏の「万葉の虹」で採用した、ネタバレ寸前の手法を今回も取ることにする。興味がある方は是非 Amazon のサブスクで月額980円を払えば「無料で読む」ことが出来るので、是非入会してみて欲しい。オススメである。
それでは本題に入るとしよう。倭国が滅び日本が成立した事情について、今までわかっている事実を順次明かにしていくことにする。テーマは「701年に倭国から日本へと、易姓革命・王朝交替が起きた」である。
1、倭国と日本国は別である
これはもう当たり前すぎて、我々日本書紀を信用していない人間にとっては今更改めて言うようなことではない。だがこのような事実を知らないで学校の教育通りに、奈良県大和地方の政権が、神武天皇以来一度も途切れることなく現在まで続いている、と思っている人が世の中には実に沢山いるのである。ここはキチンと資料に基づいて彼らを説得できるようにしなければならない。まず、「旧唐書」の東夷伝日本国の条だ。有名な字句『倭国は古の倭奴国なり』と、『日本国は倭国の別種なり』である。旧唐書は両国を別々の条に立てていて、この時点で日本に「倭国と日本国の2勢力」があったことは間違いない。問題は、「日本国」が古くから日本を代表する勢力で、その昔、後漢の光武帝から金印を拝受した「委奴国」の末裔では「ない方」と書かれていることだ。日本でも世界各地の民族と同様「相攻伐して覇権を争う」歴史があったのである。勿論、王朝交替も当然ながらあったに違いない。そう考えるのが「普通の理性」を持った人間のすることである。
当然、日本書紀だって倭国の存在を明記して、自分達よりも先に中国と通交していた国である、と紹介すればよかったのだ。昔は委奴国と言い、その後は邪馬台国と言って卑弥呼女王が治めていた。そして次第に日本国と対立するようになり、最後には「日本国によって攻め滅ぼされて今に至っている」、と。だが日本書紀は隠蔽した。その「何故?」を明らかにすることが私の最大の目標である。・・・また迷路にはまってしまった・・・。要するに、中国側では昔から朝貢して来ている倭国とは別に、「日本国」という初めて通交してきた国がある、と書いているのだ。どっちが正統な君主であるか、と言う問題には旧唐書は触れていない。ただ、王制を取る古代国家においては、国が異なると言うことは「王家・王族が異なる」ことと同義である。現代のように種族・氏族も異なる人を選挙で選ぶような民主的国家観は、当然ながら古代では存在しない。別種であるから言語などは共有しているのだろうが、あくまで「別の集団」である。全ての疑問はここから始まる、と言っても過言ではないのだ。
なお、宋代の「唐会要」や「太平御覧」などによれば、奈良時代後期や平安時代においてすら、倭国使が来訪したとしているから驚きである。・・・これはまた後述するそうだ。
以上、シリーズの第1回目でした。次回の記事をよろしく!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます