一気に寒くなってきたが、このところの日本は秋がなく、夏と冬とそして春が少しばかりの三季である。僕としては、一番好きな秋がなくなるのはいささか辛い。物悲しい秋の風情が、できれば復活してほしいものだ。冬は当たり前だが、痩せた年寄りの身体には刺すように寒い。
さて今週の話題は先週の続き、五木寛之の百寺巡礼です。今日は2016年版がオンエアーされる予定なので、彼がどう変化しているか楽しみである。
(5)飛鳥大仏と古いということ
1400年という時が重みを与えていると言うが、ただ古いというだけでありがたいと言う訳ではない。飛鳥寺の大仏は日本人の理想というよりも、インド人の理想を形にした仏像である。だから対面しても美しいとか優しいとか、そこに何らかの感動を得られる訳ではない。五木はこの大仏に何を感じたのかわからないが、僕は余り大した印象を持たなかった。なにより俯き加減の大仏を斜めに撮ったアングルでは、本当の魅力を十分には引き出せないと思う。五木は斜めがいいといっているが、どちらにしても観るものに迫ってくるものは感じられなかった。静かな仏像である。今ひとつ存在感が無いのは、周りの造作がこの寺を建てた当初のものと違って、江戸風の小物がチラホラと置かれているせいであろう。行灯や造花の類い、はたまた座布団供え物まで、後世のものはなんとなく陳腐に見える。インド伝来のものはもう少しチャチというか、エキゾチックな感じがするように思えるがこれも思い込みで、本当は建物のほうがイメージづくりには影響が出ているのかもしれない。とにかく全部焼けてしまって残っているのは仏像の一部だけであるから、もう蘇我氏の栄華を思いおこさせる雰囲気は何も残ってはいないのである。いっそ礎石のみの飛鳥寺跡地とでもしたほうが、荘麗な蘇我氏繁栄の呆気ない終焉には相応しいような気がする。僕は飛鳥寺に一度行ったことがあるが、どこにでもある街中の小さな寺であった。観光バス用のデカイ駐車場があっただけで、客は無く閑散としていた。蘇我氏も、石舞台を残して歴史の彼方へと消えていった。少なくとも、観光ルートとしてはそうである。
(6)石山寺
紅葉の美しさを人は争って観に行くが、自然の織りなす極上の絵画が目にも鮮やかに広がって心を洗う、そういう絶景としか言いようの無い天然の美を得難いものとして毎年訪れる人々を僕は否定はしない。しかし美しさというものは、身の回りに其処此処にあるとも言える。石山寺は昔F君と奈良巡りをした折りに法隆寺に行くついでに立ち寄った思い出があるが、記憶に残ってないところを見ると大したところじゃないように思う。行ったのが春だったせいもある。庭先の縁側で、お茶とお菓子を食べたのが微かに記憶に残っている。秋の石山寺は、紅葉の名所だそうだ。だが紅葉というような自然の美にたいしては、五木の印象は通り一遍で薄いように感じられる。五木の感性はどうも人間の欲望と戒律の相克といった、人間本来の弱さの部分に引き寄せられる様である。自然の持つ無心の美しさというものは、一時の安らぎを得るには格好のレクリエーションであるが、なにか深く思惟するという心の動きには向かない様である。お寺という施設の本来の用途目的から言えば、法隆寺のような庭や池の無いスタイルこそが仏寺に相応しいのではないかと僕的には密かに思っている。京都は庭の有名な寺がたくさんあるが、所詮は観光スポットと思っていて、それが京都より奈良を選んでしまう理由の一つでもある。
(7)中宮寺の半跏思惟像
中宮寺には、思い悩む顔付きで目を伏せている(と思われる)有名な仏像がある。このポーズはロダンの考える人と違って、誰かを想っているのである。じっと想っている相手が誰なのかは別として、その想いには揺るぎない確信がある。微かに微笑んでいるかのようなその俯き加減の横顔には、来世への約束が果たされないなどと微塵も疑っていない幸福感が満ち溢れている。これは日本の仏教のひとつの到達点だとは言えないだろうか。広隆寺の弥勒よりこちらの方が僕は好きだ。聖徳太子の頃といえば1400年も昔のこと、それにしては他の仏像と比べて随分と生き生きとして、今にもスッと立ち上がりそうな生身の感触が伝わってくる。飛鳥時代の仏像はどこか顔に人間味がないのが特徴だが、中宮寺の弥勒は美人でスレンダーな魅力的な謎めいた菩薩である。これでは煩悩がいや増してしまうじゃないかというのは、凡夫の浅ましさ外道の悲しさに他ならない。彼女が想う人、その人の事を彼女と同じように想うことが、仏の道である。とすれば女性にとって、この仏像が中宮寺にあるということには大きな意味がある。(おわり)
と、ここまで書いて9時になった。さて「新」百寺巡礼のお手並み拝見と行くか。ちなみに、仏教が渡ってきた当初は、今と違って「外国」という異国の雰囲気が色濃く出ていて、装飾も派手派手しい「異空間」であったと想像される。その微かな記憶を止めているのが法隆寺・唐招提寺・薬師寺といった奈良の大寺であろう。そこには池泉回遊式とかの観賞用の庭などの無い、純然たる建物のみの「仏を祀る施設のみ」しかない。実に必要にして充分な本来の寺である。そこは最高の智慧の集まる宇宙空間であった。五木寛之の「寺」とは何なのか、やはり人間の生きて行く根源についての悩みを解いてくれる存在が仏であるならば、それは癒しや安らぎの場ではなく、真理追求の戦いの場であるはずだ。それが五木寛之の探究の足跡であるなら、「百寺巡礼」またひとつの彼の原点回帰の記録である。
さて今週の話題は先週の続き、五木寛之の百寺巡礼です。今日は2016年版がオンエアーされる予定なので、彼がどう変化しているか楽しみである。
(5)飛鳥大仏と古いということ
1400年という時が重みを与えていると言うが、ただ古いというだけでありがたいと言う訳ではない。飛鳥寺の大仏は日本人の理想というよりも、インド人の理想を形にした仏像である。だから対面しても美しいとか優しいとか、そこに何らかの感動を得られる訳ではない。五木はこの大仏に何を感じたのかわからないが、僕は余り大した印象を持たなかった。なにより俯き加減の大仏を斜めに撮ったアングルでは、本当の魅力を十分には引き出せないと思う。五木は斜めがいいといっているが、どちらにしても観るものに迫ってくるものは感じられなかった。静かな仏像である。今ひとつ存在感が無いのは、周りの造作がこの寺を建てた当初のものと違って、江戸風の小物がチラホラと置かれているせいであろう。行灯や造花の類い、はたまた座布団供え物まで、後世のものはなんとなく陳腐に見える。インド伝来のものはもう少しチャチというか、エキゾチックな感じがするように思えるがこれも思い込みで、本当は建物のほうがイメージづくりには影響が出ているのかもしれない。とにかく全部焼けてしまって残っているのは仏像の一部だけであるから、もう蘇我氏の栄華を思いおこさせる雰囲気は何も残ってはいないのである。いっそ礎石のみの飛鳥寺跡地とでもしたほうが、荘麗な蘇我氏繁栄の呆気ない終焉には相応しいような気がする。僕は飛鳥寺に一度行ったことがあるが、どこにでもある街中の小さな寺であった。観光バス用のデカイ駐車場があっただけで、客は無く閑散としていた。蘇我氏も、石舞台を残して歴史の彼方へと消えていった。少なくとも、観光ルートとしてはそうである。
(6)石山寺
紅葉の美しさを人は争って観に行くが、自然の織りなす極上の絵画が目にも鮮やかに広がって心を洗う、そういう絶景としか言いようの無い天然の美を得難いものとして毎年訪れる人々を僕は否定はしない。しかし美しさというものは、身の回りに其処此処にあるとも言える。石山寺は昔F君と奈良巡りをした折りに法隆寺に行くついでに立ち寄った思い出があるが、記憶に残ってないところを見ると大したところじゃないように思う。行ったのが春だったせいもある。庭先の縁側で、お茶とお菓子を食べたのが微かに記憶に残っている。秋の石山寺は、紅葉の名所だそうだ。だが紅葉というような自然の美にたいしては、五木の印象は通り一遍で薄いように感じられる。五木の感性はどうも人間の欲望と戒律の相克といった、人間本来の弱さの部分に引き寄せられる様である。自然の持つ無心の美しさというものは、一時の安らぎを得るには格好のレクリエーションであるが、なにか深く思惟するという心の動きには向かない様である。お寺という施設の本来の用途目的から言えば、法隆寺のような庭や池の無いスタイルこそが仏寺に相応しいのではないかと僕的には密かに思っている。京都は庭の有名な寺がたくさんあるが、所詮は観光スポットと思っていて、それが京都より奈良を選んでしまう理由の一つでもある。
(7)中宮寺の半跏思惟像
中宮寺には、思い悩む顔付きで目を伏せている(と思われる)有名な仏像がある。このポーズはロダンの考える人と違って、誰かを想っているのである。じっと想っている相手が誰なのかは別として、その想いには揺るぎない確信がある。微かに微笑んでいるかのようなその俯き加減の横顔には、来世への約束が果たされないなどと微塵も疑っていない幸福感が満ち溢れている。これは日本の仏教のひとつの到達点だとは言えないだろうか。広隆寺の弥勒よりこちらの方が僕は好きだ。聖徳太子の頃といえば1400年も昔のこと、それにしては他の仏像と比べて随分と生き生きとして、今にもスッと立ち上がりそうな生身の感触が伝わってくる。飛鳥時代の仏像はどこか顔に人間味がないのが特徴だが、中宮寺の弥勒は美人でスレンダーな魅力的な謎めいた菩薩である。これでは煩悩がいや増してしまうじゃないかというのは、凡夫の浅ましさ外道の悲しさに他ならない。彼女が想う人、その人の事を彼女と同じように想うことが、仏の道である。とすれば女性にとって、この仏像が中宮寺にあるということには大きな意味がある。(おわり)
と、ここまで書いて9時になった。さて「新」百寺巡礼のお手並み拝見と行くか。ちなみに、仏教が渡ってきた当初は、今と違って「外国」という異国の雰囲気が色濃く出ていて、装飾も派手派手しい「異空間」であったと想像される。その微かな記憶を止めているのが法隆寺・唐招提寺・薬師寺といった奈良の大寺であろう。そこには池泉回遊式とかの観賞用の庭などの無い、純然たる建物のみの「仏を祀る施設のみ」しかない。実に必要にして充分な本来の寺である。そこは最高の智慧の集まる宇宙空間であった。五木寛之の「寺」とは何なのか、やはり人間の生きて行く根源についての悩みを解いてくれる存在が仏であるならば、それは癒しや安らぎの場ではなく、真理追求の戦いの場であるはずだ。それが五木寛之の探究の足跡であるなら、「百寺巡礼」またひとつの彼の原点回帰の記録である。
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