明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史通史の試み(2)景行天皇の巡狩

2018-08-28 00:11:02 | 歴史・旅行
日本書紀にある景行天皇の記述は怪しいというのが現在の歴史学会の統一見解である。古事記には一切載ってない。紀元57年に後漢の光武帝から委奴国が金印を貰って以来230年代に邪馬台国が親魏倭王の金印を拝受する間、歴史は混沌とした霧の彼方にある。そして4世紀末から5世紀初頭にかけて讃・珍・清・興・武、いわゆる倭の五王が出て高句麗と熾烈な覇権争いを繰り広げる。これは朝鮮側の資料によるので列島の事情は全く不明である。邪馬台国が日本書紀に出てこないということは、日本書紀を書くにあたって参考とした図書や朧げな記憶というものが「博多湾岸の委奴国」の歴史を中心としたもので、邪馬台国はその埒外にあったと見てほぼ間違いがないであろう。邪馬台国は論争こそ多岐に渡って出版業界を潤してきたが、所詮は日本の歴史の中心ではないのだと言うことでは無いかと思う。

そして神武と欠史八代のあと天皇位は崇神・垂仁・「景行天皇」・成務・仲哀・(神功皇后)・応神と続く。系譜は年齢が出鱈目だが欽明天皇(540年頃即位)あたりを基点にして年齢を遡っていくと、仁徳天皇あたりが倭の五王の活躍した時代と重なる。逆算してだいたい景行天皇の時代は、邪馬台国が卑弥呼・台与のあとしばらくあって、どうも委奴国中心の体制が復活するきざしが見えてきた4世紀前半と考えて問題ないのではなかろうか。つまり神武天皇が東征を初めた頃に九州を支配していたのは大乱を収束させた邪馬台国で、もともと委奴国を宗主国としていた日向の国の支配者は抗争の末に敗れて船で委奴国の本拠に戻ったが、そこでは思うように活躍の場があたえられず已む無く東へ東へと移動した。そしてついに大和に侵入し、神武王朝を開いた、というのが神武東征の物語で、「神武から欠史八代まで」は近畿大和王朝創生の物語として独立した話だと思う。それとは別に、委奴国以来の連綿と続く王朝の歴史の中で、一人の王(=景行天皇)にまとめられている「九州再統一」の物語がある、と私は考えている。委奴国の中心は当時は博多沿岸部から内陸の方へと移っていて、九州再統一は徐々に成功しつつあった。

北の周防娑婆(山口県防府市)から豊浦や下関や朽網(北九州市小倉)など地名があがっているが、要は周辺の地域を順番に従えていった物語である。右回りに、行橋市・田川市・碩田(大分市)と地元の勢力を討伐征服して傘下に治め、直入・竹田・宮処野など各地の土蜘蛛を殺しているが、首長を成敗するだけで支配下の民衆と戦闘したという記述は少ない。これは支配権を獲得したのであって、生産力は戦闘の対象では無かったということだろう。土地を得ても、耕作する人間を連れて行く明治大正の朝鮮侵略のスタイルを取る必要は「まだ無かった」のである。九州東部一帯を南下しつつ侵略征服を繰り返して、延岡市・西都市・高屋宮(宮崎市村角町)と日向を支配下に収める。神武天皇故郷の日向であるが一顧だにしていないのは、神武は委奴国の歴史とは関連がないからであろう。そもそも大和朝廷が出自とする九州日向の地に「殆ど関わりなく推移」している状況は、大和政権の物語としては不思議だ。

豊後の宇佐八幡宮は後日尊宗して皇室先祖の匂いがするが、それも天武朝末期の短い期間であり、歴史の流れから言えば熊本八代地方の「伊勢神宮」を故地とするアマテラスのほうが主流である。大和朝廷も歴史がいくつか重なっており、最も古い言い伝えが神武天皇東征から始まる地域の侵略譚であろう。もともとの勢力(長髄彦)を破って九州から侵攻してきた一族は日向ではなく「熊本の邪馬台国の末裔」という可能性も無いではない。何しろ古い話なので断片的な資料も古事記あたりで取捨選択されて「ごちゃまぜ」にされてわからなくなっているから、筋道が通っているように一見見える話が実際にあったとは限らないのである。だが大筋は「委奴国」がまとめていた倭国が「大乱」でしばらく戦争状態が続き、それを邪馬台国が収拾し「国の主役が博多沿岸から内陸八代湾」へと移った。その時中国の魏と通商していた記録が「魏志倭人伝」となって残されている、というのが古代史の殆ど全てである。歴史と言っても、大して残ってはいないのだ。

景行天皇の巡狩という記録も、いろいろな記憶の断片を集めて一つにまとめた「物語」に過ぎない。ただそこから見えてくるものは、委奴国の後継国家が現在の大宰府から久留米・佐賀あたりを本拠として九州一円を制覇していく栄華物語である。その証拠と見られる記述が実は「博多沿岸部から太宰府・久留米地方にかけて征伐記録が無い」ことである。下関から国東半島・日田地方をへて日向・宮崎と転戦し大いに土蜘蛛を征伐し、南の隼人・大隅の「曽於国」平定をヤマトタケルに任せて自分は一旦高屋宮に戻る。どうやらこの宮崎高屋宮は景行天皇の九州東部征伐の拠点のようだ。しばらくしてまた九州西部の征伐に乗り出し、夷守(宮崎県小林市)から熊本県人吉に入り、葦北から船に乗ってぐるぐる回っているが戦闘はしていないように見受けられる。八代・宇土と各地を巡って玉名で大神宮創建話が語られる程度で山鹿を平定し、みやま市の海津天満宮・御門神社や八女市の八女津媛神社など奉斎して浮羽に戻りしばらく滞在している。

この間、佐賀・長崎を巡狩しているようだが全体に、一度に回ったわけでは無いし何度か戦闘・征服が行われていたであろうことは間違いない。また景行天皇一人が行った事績でもない、というのが私の理解である。大事なことはこの九州一円の征服譚が「どの勢力」で行われたか、ということに尽きる。委奴国から邪馬台国へと支配者が移って、後のタイ国(にんべんに妥)が中国の史書で「古の委奴国」と紹介されているところを考えると、邪馬台国からまた委奴国へ中心が戻ったと見える。佐藤彰著「阿蘇外輪山と聖徳」には阿蘇山の東側に広がる外輪山を取り巻くように竹田・豊後大野といった古代都市が隆盛を極めていたという。ここがタイ国だと佐藤彰は言うが、どうも半信半疑である。倭の五王は朝鮮半島に精力的に進出を企てて、高句麗の石碑に刻まれたように活発な活動をしていたことが見て取れるから、竹田では少し遠過ぎる気がするのである。

AD400年をまたいで倭の五王が朝鮮を攻め続けていた頃、つまりようやく国家という観念が出来てきた「強大な力をもったタイ国」は、太宰府に首都を置き、東は大分・宮崎から西は久留米・佐賀・唐津を押さえ、南は熊本・阿蘇をも支配下にする一大帝国を築いていた、私はそのように考える。もはや邪馬台国や隼人の国はタイ国に吸収され、歴史から消滅した、ということである。だが私はどうしても確実な事実がほしい。別の本では天神族は熊襲族と争って、最終的に博多から追われて奈良に新天地を求めた、とする説もあるし、この間の壬申の乱を九州の地名で読み解く本では、佐賀あたりを天智天皇の最後の地とし、天武天皇の吉野行きを描いているから藤原京は九州の可能性が高いと書いている。では、天智天皇と天武天皇はそもそも「委奴国・天神系なのか邪馬台国・熊襲系」なのか。

私の古代史は結局、天武天皇が「どの系譜に連なる人間か?」に集約されるのである。戦国時代の織田信長が地の利を活かして一気に天下布武を成し遂げたように、出雲・吉備の勢力がどれほど力が強くても、朝鮮に向かう地の利を持っていた委奴国が最後は有利になったであろうことは確かである。では委奴国からタイ国への変化はどのようにして起きたのか。国名を替えるというのは為政者が交代することを意味する。倭の五王は皆名前が「倭プラス一文字」である。これは漢風の名前が中国への親書には使われたと考えられるが、名字の「倭」は朝鮮側の資料にも倭とあるように、国際的に認知されている日本の呼び方ではないだろうか。邪馬台国の頃は「難升米」とか「液邪狗」とか洗練されていない。倭国では、おそらく半島から日常的に大量の人々が移住してきて、文化的人的交流が活発だったと思われ、倭国文化も「大陸的」に国際色豊かだったと考えられる。そんな倭国=委奴国と比べて、邪馬台国の田舎っぽい熊襲文化はどうも馴染まないのである。

やはり先進の委奴国(タイ国)が倭国を引っ張っていたのではないか、というのが現時点での私の考えである。と言うわけで、今回は中途半端な記事になってしまった。景行天皇は実在しないか、実在したにしても多くの大王達の事績を集約して一人の活躍にまとめていると考えた。日本書紀は決して嘘を書いているわけではなく正直に、言い伝えられた歴史を丁寧に書いているに過ぎないと思う。九州の出来事を、さも大和で起きた事のように書いていると言う批判があるが、これは701年まで実際に朝廷が九州にあったと考えれば、嘘でもなんでもなく「事実をありのままに書いている」事になる。いかに藤原不比等といえども、国家の歴史を「嘘」で書き換えることなど出来よう筈もないでは無いか。日本書紀は「事実を描いている」と言う新しい視点、それを検証していくのが私のライフワークである。

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